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ドンナ・アンナの自由への希求 【沼野恭子×リアルワールド】

 本誌4月3日号の「リアルワールド」で、ロシアがウクライナのドニプロをミサイル攻撃して犠牲者を出したとき、ロシアのいくつかの都市で、ウクライナの詩人レーシャ・ウクラインカ(1871〜1913年)の記念碑に献花する人々が現れた、と書いた。その時点では、ウクラインカの作品はほとんど日本語に訳されていなかったのだが、なんとその直後の5月に、彼女の詩劇『石の主(あるじ)』がウクライナ語からの翻訳で刊行された(法木綾子訳、群像社)。たいへん喜ばしい。

 これは、ウクラインカ自身が「自分の書いたものの中でいちばん好き」という作品で、有名なドン・ファン(ジュアン)伝説を大胆に翻案した戯曲である。実は、ロシアの国民詩人アレクサンドル・プーシキン(1799〜1837年)もやはりドン・ファン伝説を下敷きにした詩劇「石の客」を残しており、ウクラインカはプーシキンのこの作品にインスピレーションを得たといわれている。ところが両者はかなり異なっている。

 プーシキンの「石の客」(1830年)は、ドン・ファンが騎士団長を殺してその未亡人ドンナ・アンナを誘惑し、墓地にある騎士団長の石像を客に招いて破滅するという物語だが、本来は冷酷な色事師であるはずのドン・ファンが、情熱的だが真摯(しんし)な「詩人」という、作者その人を思わせるような設定になっている。プーシキンが、親密になった女性たちの名前を37も並べた「ドン・ファン・リスト」なるものを作成した恋多き男だったことを思えば、『石の客』のドン・ファンがプーシキン自身に似ていても不思議ではない。

 一方、ウクラインカの「石の主(あるじ)」(1912年)はタイトルが、プーシキンの作品タイトルとは文字どおり主客逆転して「客」ではなく「主」となっており、「石の主」である騎士団長の家に未亡人ドンナ・アンナがドン・ファンを招く。プーシキンの作品では明らかにドン・ファンが主人公だが、ウクラインカの作品では怖いもの知らずのドンナ・アンナの形象が陰影に富み、存在感が強くて、ドン・ファンと並ぶ主人公となっている。

 何よりも目を引くのは、ドンナ・アンナの自由への希求が際立っていること、そしてドン・ファンには彼女の「誇り高く自由な魂」を助ける者という役割が割り振られていることである。ここには、女性の自立の問題が大きく関わっているのだろう。ちなみに、ウクラインカの母オレーナ・プチールカは、女性運動の熱心な活動家であり作家でもあった。

 「石の主」は、最後にドンナ・アンナがドン・ファンに権力を与えようとしてクライマックスを迎える。ぜひウクライナ版ドン・ファン物語の思いがけず新鮮な魅力を日本語でぞんぶんに味わってほしい。

・筆者:レーシャ・ウクラインカ ・訳者:法木綾子 ・176ページ ・群像社 ・1870円

沼野恭子(ぬまの・きょうこ)/1957年東京都生まれ。東京外国語大学名誉教授、ロシア文学研究者、翻訳家。著書に『ロシア万華鏡』『ロシア文学の食卓』など。

(Kyodo Weekly・政経週報 2023年7月24日号掲載)

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