「特集」自己責任化する子育て 格差浮き彫り、公共心低下 「社会に支えられた」経験必要
現代の育児はエリートスポーツ
「現代の育児はさながらエリートスポーツである」―。SBI金融経済研究所は今年6月に公表したリポートでこのように評した。
現代の子育て世代はビジネスパーソンとして高い成果と長時間のコミットメント(関与)を求められる一方、家庭では子どもの教育や体験に十分な時間とお金を注ぐことが当たり前に求められるようにもなった。かつては多くの人が自然に参加できた営みだった子育てが、十分な資源と準備を持つ者でなければ参加しにくい富裕層の競技に変わりつつある、という指摘である。
「子育てのエリートスポーツ化」という比喩をもっと分かりやすく言い換えれば、「子育ての自己責任化」である。
学校や地域には、かつて子どもにさまざまな経験を与える仕組みが備えられていた。放課後の部活動、地域の子ども会、学校行事、近所の異年齢集団などである。もちろん、昔の仕組みをそのまま全面的に美化することはできない。教師や保護者の無償労働によって支えられていた面も大きかったからだ。だがそれでもその仕組み自体は、親の所得や情報収集能力にかかわらず、子どもが一定の経験に触れられるある種の「経験インフラ」として機能していたことは事実だった。
いま、そのようなインフラは綻びつつある。例えば全国各地で部活動は学校から地域へと〝移管〟されつつある。地域へ移管といえば聞こえはよいが、要は「各々のご家庭で部活動に代わる活動を見つけだして、手弁当で補完してください」ということだ。学校だけで完結しない活動が増えれば、保護者は教室やクラブを探し、申し込み、送迎し、費用を負担する必要が出てくる。これまでの社会がインフラとして提供していたものが、少しずつ各家庭の責任になっていく。
文部科学省の「子供の学習費調査」を見ると、公立小学校に通う子どもの学校外活動費は、2012年度の年約20万9千円から23年度には約25万6千円へ増えた。公立中学校でも学校外活動費は年約35万6千円に達する。公立に通わせれば教育にはそれほどお金がかからない、という時代ではない。

写真:Getty Images
問われる「親の総合力」
学校施設の老朽化、少子化、教員の働き方改革、地域人口の減少など、これまでの仕組みを維持できなくなった現実的な事情がある。部活動の地域移行も、教員の負担を減らし、専門的な指導者につなぐという点では合理性がある。だがデメリットもある。公共部門が退いた穴をそのまま各家庭の経済力やマネジメント能力や時間的余裕に委ねて「自前化」してしまえば、それは結果として「生まれの格差」を浮き彫りにしてしまうことだ。
公が担わなくなった子どもたちの教育や経験を各家庭の「自前」に転嫁していく流れは、単に塾代や習い事代が増えることを意味するだけではない。どの塾がよいのか、どんな習い事をさせるべきなのか、どのような体験が子どもの将来に役立つのか。親自身が情報を集め、比較し、選択し、申し込み、場合によっては送迎までしなければならない。
そこで問われるのは所得だけではない。時間、知識、人脈、住んでいる場所、そして「いまの子育てでは何をしておくべきなのか」という情報への感度まで含めた親の総合力である。
こうなると、子どもがどれだけ多様な経験を積めるかは、本人が頑張る以前に「親が教育投資レースにどこまで資源を投入できるか」に左右されることになる。これは近ごろのインターネットで「親ガチャ」と揶揄されるような、子どもたちの生まれた家の経済格差がそのまま教育格差や経験格差につながる状況を加速させてしまいうる。
「公助」を信じない世代
子育てが公を離れて個人戦になっていくことにはもうひとつの重大な弊害がある。「公助」を信じない世代の登場である。
ここ最近、筆者が高学歴層の若者と話していると、「自分の能力を社会のために使いたい」というより、「まず安定した職を得たい」「十分な資産をつくりたい」「できるだけ早く競争から降りたい」と考える人に出会うことが珍しくない。
これを単純に「最近の若者には公共心がない」「エリートにノブレス・オブリージュがなくなった」と批判する向きはあるだろう。しかし私は、彼らが「社会」のためにその能力を還元したいと感じなくなった本当の原因は別にあると考えている。そう、彼らが「自前化した子育て」の中で育ってきたことによって築かれた世界観である。
いまの若い高学歴層は、まさに教育が「各家庭の自前」になっていく時代に育ってきた。塾も、習い事も、受験対策も、留学も、さまざまな課外活動も、親が情報を集め、親が費用を払い、本人が競争を勝ち抜いて手に入れる。その経験を何年も積み重ねれば、自分の現在の地位について「社会に育ててもらった」という感覚よりも、「親の苦労と自分の努力でここまで来た」という感覚の方が強くなるのは不思議ではない。
なぜ社会に恩返し?
そこへ社会の側から突然、「あなたは恵まれたのだから、その能力や所得を社会に還元する責任がある」と言われても、本人には腑に落ちない。誤解を恐れずいえば、苦労するときには各々の自己責任を求めながら、成功した途端に成果を公共財として扱おうとする社会に見えてしまうからである。「世話になった覚えがないのに、なぜ恩返しを求められるのか」と。
もちろん実際には、道路も医療も治安も学校も、私たちは無数の公共サービスに支えられて生きている。しかし重要なのは制度上支えられているかどうかだけではない。そうではなくて、本人が「自分は社会によって支えられて育った」と実感できるかどうかである。 公共心、もっとウエットな表現をすれば「同じ日本で生まれた仲間(同胞)意識」とは、道徳の教科書を読ませれば生まれるものではない。自分自身もまた、家族だけではなく、名前も知らない多くの人から支えられてきた。その経験があるからこそ、自分もまた見知らぬ誰かを支える側に回ることを受け入れやすくなる。
逆に、子どものころから「必要なものは各家庭で買ってください」「将来は自分で備えてください」と言われ続ければ、「では自分が得たものも自分のものだ」と考えるようになる。これはシンプルな因果だ。若者たちの人格の問題というより、社会が陰に陽に突きつけたルールを若者が忠実に学習した結果なのである。
公共心を再興するには?
では、彼らの視線を再び「社会」に向けさせるためにはどうしたらよいだろうか?
おそらく必要なのは、若者に「もっと社会のために働け」「恵まれた者には責任がある」と上から目線に説教することではない。順序が逆である。社会の側がまず、「自分はこの社会に育ててもらった」と実感できる物語を再構築していくことだ。
例えば放課後のスポーツや文化活動、自然体験、科学体験などがそうだろう。学校がすべてを抱え込む必要はない。民間のスポーツクラブと自治体が連携してもかまわない。ただ、学校から切り離したものを、そのまま「各家庭で適当なものを探してください」にしてしまえば、それは公共化ではなく単なる自己責任化である。所得や親の情報力、送迎できる時間の有無にかかわらず、一定の経験にはどの子もアクセスできる。社会の側がその入口くらいは最低限用意しておくべきだ。
いまの子育て支援は、ともすると「使える制度がありますから自分で探して申請してください」という形になりがちでもある。しかし、それでは結局、制度をよく調べる親、手続きをこなせる親ほど有利になる。支援を受けるためにまで「親の総合力」を競わせていては、教育投資レースのコースをもう一本増やしているだけだ。学校や自治体を通じて、親が必死に情報収集しなくても子どもに機会が届く仕組みの方がよい。
現代の親たちはみな忙しく働きながら、子どもたちによい教育・よい経験を与えようと、わずかな時間も惜しんで動き続けている。それ自体はもちろん殊勝なことだと思うが、しかし子どもたちにその「自分のために忙しそうにしている親の姿」をひたすら見せつけることになる。これは子どもたちの側に、「自分は親だけに育てられた」という記憶として刻み付けられてしまう。
だからこそ、親だけではなく、「社会もまたあなたのために汗をかいている」という姿を、子どもたちの目に見える形で示していく必要がある。
自分の知らない大人が、自分たちの遊ぶ場所を整えている。地域の人が、放課後の活動を支えている。自治体が、家庭の所得にかかわらず参加できる機会を用意している。そうした親以外の他者に支えられている経験を通じて初めて、子どもは「自分は家族だけではなく、もっと大きな共同体の中で育てられてきた」という物語を実感できる。公共心や同胞意識とは、結局のところ、そのようなほんのりあたたかい記憶の積み重ねなのだ。
文筆家・ラジオパーソナリティー 御田寺圭(みたてら・けい) 会社員として働くかたわら、「テラケイ」「白饅頭」名義で広範な社会問題についての言論活動を行う。著書に『矛盾社会序説 その「自由」が世界を縛る』(イースト・プレス)のほか、『ただしさに殺されないために 声なき者への社会論』(大和書房)などがある。
(Kyodo Weekly 2026年10月26日号より転載)
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