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【連載 “人”が伝える高知の魅力】牧野博士と生きる 牧野富太郎ってどんな人

 

 太平洋の大海原を望む高知県。背後には豊かな山と川が広がる。その魅力を、そこにいる“人”を通じてじっくり伝える連載インタビュー。第2弾は高知県紙の記者に「牧野博士」について聞いた。

 

 ■高知県民にとって坂本龍馬と同格の存在

 高知県出身の植物分類学者である牧野富太郎。今春のNHK連続テレビ小説「らんまん」の主人公だ。「高知県民にとって坂本龍馬と牧野富太郎は同格。われわれは遠足の場所として県立の牧野植物園に行っているので、牧野富太郎のことはみんな知っている」

 高知県紙の記者である竹内さんは、かつて牧野ゆかりの地や人を訪ねて全国行脚したことがある。「高知県内を出ていろいろなところで牧野富太郎の取材をした。そこで痛感したのは知名度の低さ。だから今回朝ドラの主人公として牧野富太郎が取り上げられて、知ってもらえることは非常に素晴らしいことだと思っています」

高知新聞社記者の竹内一さん
高知新聞社記者の竹内一さん

 ■植物分類学者・牧野富太郎の生涯

 牧野富太郎は、明治末に多様な植物に恵まれた佐川町(さかわちょう)の造り酒屋に生まれた。幼少期から英語を学び、世界の書物を取り寄せる資金力もあった。「田舎にいながらグローバル」だった青年は、独学と自然のフィールドで得た知識をもって、東大の植物学教室に乗り込んだ。「東大の入試も受けていないのに東大生たちをむしろ指導して、時には教授よりも目立ってしまう。そこで、やっかみもあって追い出されたりするものの、また必要とされて引き戻された」

 東大での身分は不安定だったが、だからこそ植物採集のために全国各地を自由に飛び回り、各地で植物愛好家たちを育て、交流することができた。「タレント学者の先駆けだと思う。東大から偉い先生が来て、こんなに親切に詳しく説明してくれることに、みんな驚いて感動したわけだから」

 富太郎は94歳の長寿で、生涯かけて約1500種類以上の植物を命名し、40万枚以上の植物標本を採集した。「幸いに私はこの仕事をするに充分な健康を持っている。今でも夜二時過迄仕事をしているが、これをしないでは物足らない感じがする」(『牧野富太郎自叙伝』引用)というように視力が良く健康体で、晩年まで精力的に研究活動を続けた。「植物分類学者にとって一番大事なことは時間。あちこちに行く時間、植物をたくさん知ること、発見するには時間が必要。長生きできたことが大きい」

東京帝国大学理科大学植物学教室にて。38歳の頃の富太郎。(高知県立牧野植物園提供)
東京帝国大学理科大学植物学教室にて。38歳の頃の富太郎。(高知県立牧野植物園提供)

 ■誰もが愛してやまない、チャーミングな人

 取材を進めながら改めて知ったのは、富太郎の「チャーミング」な人柄だ。「牧野博士のためだったら自分も手伝おうとか、お金の支援をしようとか」。研究に私財を注ぎ込み巨額の借金を作って困窮した富太郎は、神戸の青年・池長孟(いけなが・はじめ)の援助によって危機を脱する。池長は富太郎の借金返済のために標本を買い取り、買い取った標本を収容する植物標本館を設立した。1918年、神戸会下山(えげやま)の「池長植物研究所」で開所式を迎えている。残念ながらその後の標本整理が進まず、標本館が一般公開されることはなかったが。

 誰もが「牧野博士という人物を愛してやまない」のを、実際に一緒に植物採集に行った人たちの話からも実感した。「牧野愛」を特に強く感じたのは、高知県立牧野植物園で働く人たちだ。彼らからは「いまだに牧野先生が生きていらっしゃって、そのために私たちは頑張っている」という思いが伝わってくるという。「僕は牧野富太郎に会ったことはもちろんないけれど、いまだに彼の仕事の依頼が来ます。死んでもなお、牧野博士のためにみんなが仕事をしている。僕もその一人(笑)」

兵庫県・池長植物研究所にて。67歳頃の富太郎。(高知県立牧野植物園提供)
兵庫県・池長植物研究所にて。67歳頃の富太郎。(高知県立牧野植物園提供)

 ■ダビンチの絵のよう、精緻で美しい牧野式植物図

 もう一つ注目するのは、「科学なのにアート」な富太郎の植物図や植物標本だ。富太郎は画工に図の作成を任せなかった。自ら描いた植物図はおよそ1700枚を数える。「自分でいうのも変だが、私は別に図を描く事を習ったわけではないが、生来絵心があった」(『牧野富太郎自叙伝』引用)

 植物学者としての観察力と天性の画力から生まれた牧野式植物図は、花弁、葉、根、毛の状態など、その植物が持つ情報が完全に描き出され、肉眼では見えない内部構造、開花から結実に至るまでの成長や季節による変化までがバランス良く配置されている。「ダビンチが描く絵と似ている感じもするんです。アートとして美しいねと言われたら、博士は心外でしょうけど」

 さらに驚くべきことは、収集した植物を新聞紙に挟んで乾燥させて作る、押し葉標本までもが「美しい」ことだ。富太郎は高知県佐川町の実家周辺や横倉山、仁淀川町、そして沖縄を除く全都道府県から台湾・旧満州にまで植物採集に出かけた。「私は胴籃(どうらん)を下げ、根掘りを握って日本国中の山谷を歩き廻って採集した。しかもそれは昔の人とは比べものにならない程ひんぱんで且つ綿密なものであった。なるべく立派な標品を作ろうと、一つの種類も沢山採取塑定し、標品に仕上げた。この標品の製作には、私は殆ど人の手を借りたことはなかった」(『牧野富太郎自叙伝』引用)とつづっている。

 統一規格の台紙に絶妙なバランスで並べられた富太郎の押し葉標本は、専門家も「こんなにきれいにレイアウトすることはできない」と感嘆する仕上がりだという。富太郎が生涯かけて採集した40万点の標本の多くは現在、東京都立大学牧野標本館に移管されている。

植物図(高知県立牧野植物園所蔵)
植物図(高知県立牧野植物園所蔵)
標本(高知県立牧野植物園所蔵)
標本(高知県立牧野植物園所蔵)

 ■牧野富太郎を知る前後で人生が変わった

 最後に、竹内さんご自身にとって牧野博士とは何かを尋ねた。「大げさかもしれないが、牧野富太郎を知る前後で人生が変わった」という返事が返ってきた。富太郎は、早春にかれんな白い花を咲かせる故郷佐川町のバイカオウレン、秋には横倉山の崖地で黄色い釣り鐘型の花をつけるジョウロウホトトギスなど、普段気に留めていなかった日本の草花、足元の自然に目を向けることを教えてくれたという。「外来の植物もいいが、日本古来の植物の美しさを、牧野富太郎を通じて知った。牧野富太郎が好きということが、日本の草花が好きということにつながる。僕は高知の“自然資本”と呼んでいますけど、みんな改めて(その価値に)気付くんじゃないかな」

 「雑草という草はない」は牧野富太郎が残した名言だ。「一つ一つの植物に名前があって、それを知ると散歩をしていても楽しい。これから日本に、牧野富太郎を通じてのボタニカルな価値が永続的に生まれてくれれば」

バイカオウレン
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