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「特集」 将棋 藤井八冠 ゲームAI研究から判明した強すぎる秘密

伊藤毅志
電気通信大学教授

 11月10日、将棋のプロ棋士藤井聡太さんが21歳11カ月という若さで八冠を達成したニュースが日本中を駆け巡った。将棋の八大タイトル独占というのは、とんでもない偉業で、空前絶後の記録であると思っている。私は将棋を題材とした研究を行っていることもあり、本件について各メディアから取材を受けたが、その中で「藤井八冠の強さを野球などのスポーツに例えてください」と問われて、「打者なら4割をコンスタントに打つ選手」「投手なら170キロの速球をコントロールよく投げることができる選手」などと表現した。言いたいことは、過去に例がないほどのプレーヤーであるということである。

 日本将棋連盟会長の羽生善治九段(永世七冠)も、偉大なプロ棋士で、七冠を達成しただけでなく、七冠すべて永世称号を得るという離れ業を成し遂げており、羽生九段を超える棋士は自分の存命中にはもう見られないのではないかと思っていたが、藤井八冠はその偉業をも超える可能性を秘めた棋士であると私は思っている。このことを支持する客観的データとしての「平均損失」について説明していきたい。

影響与えた将棋AI

 平均損失の話をする前に、平均損失を算出するための将棋AIの棋力の現状から説明しよう。将棋AIが人間のトップを超えたのは、専門家の間では2015年頃とみられている。プロ棋士と将棋AIとの対戦は、17年までドワンゴの主催で行われてきたが、16、17年には、山本一成氏らが開発した「ponanza」が当時叡王の山崎隆之八段、佐藤天彦九段と対戦し、いずれも2連勝を収めた。

 プロ棋士と将棋AIとの対戦は、この対戦を最後に行われなくなったが、最強の将棋AIを決める世界コンピューター将棋選手権はその後も続いており、毎年次々と強い将棋AIが開発され続けている。現在の将棋AIの強さはというと、強さを数値化するレーティングで人間のトップを3千点程度とすると、4500点を超えるレベルに達しているともいわれ、人間をはるかにしのぐレベルである。

 私どもの研究室では、人間の知を超えた存在となったゲームAIを題材として、AIが人間を凌駕(りょうが)するようになった先に人間とAIの新しい関係について考察する研究を行っている。一足先に人間を凌駕するようになった将棋AIは、このテーマを考える上でよいテストベッド(実証基盤)であると考える。

 将棋AIに造詣の深い勝又清和七段によれば、プロ棋士が本格的に将棋AIを研究に活用し始めたのは、17年頃だと指摘する。もちろん、若手のプロ棋士は将棋AIの強さにいち早く着目し、10年代前半には、将棋AIを本格的に研究に取り入れ始めていた人もいたが、将棋AIを自宅のパソコンで簡単に導入するには、それなりのコンピューターに対する知識が必要で、それを動かすハードウエアのコストも高かった。

 17年頃には、フリーの将棋AIがネット上に公開され、またそれを容易にダウンロードして汎用(はんよう)のパソコンでかなり高いパフォーマンスを示すようになってきた。また、将棋ソフトを動作させて思考過程を表示するGUI(グラフィカルユーザーインターフェース)も複数提供されるようになり、パソコンに不慣れなプロ棋士であっても比較的手軽に研究に導入できるようになったことが、多くのプロ棋士が研究に取り入れるようになったのではないかと勝又氏は回顧する。

研究の主流は序盤

 当研究室は、日本将棋連盟からプロ棋士の棋譜を取り寄せて、17年前後でプロ棋士の棋譜に将棋AIの影響が現れているかを調べてみることにした。

 勝又七段によると、プロ棋士がAIを用いて行う研究の中心は序盤であるとのことであった。プロ棋士同士の対戦では、序盤で有利に築くことが将棋を進めるうえで重要であり、序盤で大差になってしまうと、中盤以降でその形勢をひっくり返すことは難しい。そのため、プロ棋士は序盤の研究に余念がなく、次の対戦相手が決まると、対戦相手の好む戦型を考えて、想定される序盤の形を研究し対策を立てる。この際、将棋AIを用いることで、将棋AIからみて不利になる形は避け、なるべく互角以上で戦える戦型を研究することになる。

 将棋の序盤はAIの研究の主流であると考えられるので、将棋の序盤といわれる初手から40手までを対象に、将棋AIが示す最善手の数を、分析対象となる総局面数で割って算出する「AIとの着手一致率」を調べ、過去5年ごとの平均一致率の推移を調べることにした。その結果が図1である。

 これをみると、17年以前から、AIとの着手一致率は右肩上がりで高くなっている傾向がみられるが、特に17年前後で、顕著な伸びがあることが判明した。このことは、AIの導入によって、序盤研究が大いに進んだことを示している。

 一方で、プロ棋士の棋力は将棋AIによって伸びたといえるのだろうか。これを測る指標として、「条件付き平均損失」という指標を用いることにした。これに先立つ研究で、中盤以降の拮抗(きっこう)した局面における一手ごとの平均損失の平均値がそのプレーヤーの強さ(レーティング)と強い相関があることを示すものがある。この研究を利用して「平均損失」を調べることで、17年前後でプロ棋士の棋力の伸びを調べてみることにした。

 「条件付き平均損失」は、棋力の判定に特に有効な着手のことで、この分析に用いた杉村達也弁護士開発の「水匠4改」では、「41手目から90手目までの着手前の局面評価値の絶対値が600以下の局面を対象とした平均損失」が有効であることが分かったので、それを利用した。

 この「条件付き平均損失」を用いて、プロ棋士の棋譜を分析し、5年ごとで平均して推移を調べたグラフが図2である。

 これをみると、1987年から91年が若干低いものの、ほぼ横ばいで有意な差が認められないことが分かった。この結果から、2017年前後でプロ棋士の棋力はさほど明確に伸びていないことが明らかになった。

正確で素早い「読む力」

 プロ棋士全体の平均は、前述のような結果になったが、将棋界におけるトッププレーヤーは特に将棋AIの影響を受けていることが考えられる。そこで、トッププレーヤーの棋譜を対象に前述二つの指標を調べてみることにした。

 22年11月時点でのプロ棋士のレーティングに基づいたランキングを調べて、トップ棋士の「AIとの着手一致率」をグラフにしたものが図3である。

図3

 これをみると、振り飛車党の菅井竜也九段を除いて、すべてのトップ棋士がAIの出現に伴って、一致率が高まる傾向がみられる。トッププロ棋士は、AIを用いて序盤を研究するようになって、序盤における着手一致率が高くなっていることが分かった。藤井八冠に着目すると、中でもより高い一致率を示しているものの、他のプロ棋士の一致率も高く、有意差は確認できなかった。

 そこで、条件付き平均損失についても調べてみた。その結果をグラフにしたものが図4である。藤井八冠だけが、特異に高い条件付き平均損失であることが明らかになった。七冠を達成した1996年ごろの羽生九段と比べても、その高さは特異な数値であることが分かる。

 さらに、上位10人と棋士全体の条件付き平均損失を比較したグラフが図5である。これをみると、上位10人の平均損失がマイナス50前後であるのに対して、全棋士の平均はマイナス60程度であることが分かる。さらに、藤井八冠の平均損失はマイナス30前後という、とんでもない値を出していることが分かってきた。

 これは、大ざっぱに言えば、他のトッププレーヤーに対して、藤井八冠は10手指すごとに約200点の差を付けることを意味している。AIから見てこれだけ正確な手を選んでいるので、藤井八冠が負けにくいのがよく分かる。

 これが、藤井八冠が前例のない強い棋士であることを示す数値データである。これだけ高い平均損失を出せる理由は分かっていないが、筆者は正確で素早い読みの能力が関係しているのではないかと考える。藤井八冠は子どもの頃から詰め将棋の高い能力を示していたが、この頃に培った正確な読みの訓練が、指し将棋に生かされているのではないかと推測する。

 他の棋士も序盤の研究を深めることで、ある程度優勢を築くことはできるかもしれないが、中盤以降の正確さが藤井八冠の強みであり、序盤リードしたとしてもジリジリと差を詰められ、最後には逆転されてしまう。藤井八冠に勝つことは至難の業だと考えられる。この平均損失の値は、AIを使ってもなかなか伸ばすことができないことは先の研究に示す通りであり、藤井八冠に匹敵するような特異な条件付き平均損失の値を持った新しい棋士が誕生するまで、藤井1強の長期覇権が続くことが想像される。筆者が藤井八冠のことを「前例のない強さ」と評したのはこれが理由である。

電気通信大学教授 伊藤 毅志(いとう・たけし 1964年名古屋市生まれ。)北海道大学文学部行動科学科卒業。1994年名古屋大学大学院工学研究科修了、工学博士。電気通信大学では人工知能先端研究センターを兼務。UEC杯コンピュータ囲碁大会実行委員長、デジタルハリウッド大学客員教授も務める。主な著書に「先を読む頭脳」(新潮社)、「ゲーム情報学概論」(コロナ社)、「ゲームAI研究の新展開」(オーム社)など。

(Kyodo Weekly 2023年11月27日号より転載)

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