【スズキナオが聞く“発酵する人々”】第4回 お酒の神様「松尾大社」神職・西村伴雄さんに「神社とお酒のこと」を聞く

「松尾大社」広報担当の西村伴雄さん
千年以上の長い歴史の中で醸されてきた日本の「発酵」。21世紀に入ってからは、世界各地の異文化と融合し、新たなカルチャーとして食のシーンを盛り上げている。伝統と革新がせめぎ合う発酵食の土台となる“麹”から、発酵の産物である酒造り、お酒と深い縁を持つ神事など、さまざまな側面で発酵カルチャーを広げる人たちを、4回の連載記事で紹介する。
シリーズの第4回は、京都市西京区嵐山にある京都最古の神社の一つ、松尾大社の広報担当を務める西村伴雄さんへのインタビューである。お酒の神様として古くから信奉されてきた松尾大社では、毎年「酒-1グランプリ」という日本酒の祭典も開催されている。
西村さんに松尾大社とお酒の関わりや、神事におけるお酒の役割について、じっくりとお話を伺った。取材当日、西村さんが神職を務める嵐山・櫟谷(いちたに)宗像神社の社務所にお邪魔した。松尾大社で広報担当として活躍される傍ら、西村さんは櫟谷宗像神社でも神職を務めておられる。多くの観光客でにぎわう嵐山だが、社務所の中には落ち着いた空気が漂っていた。
――よろしくお願いします。まずは松尾大社とお酒というものがどうして深く関わるようになったのかということを伺ってもいいでしょうか。
5世紀初めに、秦一族という一族が朝鮮半島から日本に渡ってきたんです。397年か398年から、400年過ぎぐらいまでの間に、その秦一族の人々がある程度まとまった数で日本にやってきたと言われているんですね。秦一族は、土木工事の高い技術を持った集団だったんですけれども、一緒に渡ってきた人たちの中には、血縁でつながる人だけじゃなく、当時混乱が続いていた朝鮮半島から日本に逃げてきた人々もいたと考えられています。というのも、当時は高句麗と新羅と百済がしょっちゅう戦争をしていたり、バッタの大量発生による飢餓もあって国民が疲弊していたんです。ですから、一つの技術を持った一族というより、さまざまな人々が秦氏として迎え入れられたようです。
――なるほど。
それで九州の、今の大分県宇佐のあたりにその人たちが住んで、まず何をやったかというと、宇佐神宮の裏手には鉱山があったんですが、その開拓に携わるんです。そしてその後に今の奈良県の掖上朝妻(わきがみあさづま)というところに土地を賜った。葛城山の麓なんですが、そこに5世紀の半ばから後半までいたようです。ただ、その後、葛城氏の一族の長であった葛城円(かつらぎのつぶら)と雄略天皇の間に争いが起きて、葛城一族の主家が滅ぼされてしまうんです。葛城氏の庇護のもとには秦氏と賀茂氏がいたんですが、それを機に賀茂氏は京都の北の方に、秦氏は京都の東と西に分かれて住むようになったんです。そして秦氏の中で京都の東に住み着いた人たちには後に伏見稲荷を作り、西に住み着いた人たちは後に松尾大社を作ったんです。西に住んだ人たちの方が本家筋だったんですが、その人々が住んだ土地だということで偉大な秦、太い秦と書いて「太秦(うずまさ)」とその辺りを呼ぶようになったと。秦氏はもともと「大山咋神(おおやまくいのかみ)」という土地の神様を自分たちの守護神にしていて、それが後に松尾大社というお社になるんです。

お話を伺った嵐山・櫟谷宗像神社
――そういう歴史があったんですね。勉強になります。
当時、秦氏の一番の目的は何かというと、川の氾濫を治めることでした。嵐山に葛野大堰という堰を築いて、水をある程度ここに溜めてそれを中之島という島で二つの流れに分けて勢いを弱める。そして罧原堤(ふしはらづつみ)っていう堤防を作って川の流れを制御したんです。この川の氾濫を制御するというのが秦氏がここに住まわされた一番大きな理由だったんです。それから秦一族は、この辺りをどんどん開墾して、川の流れに沿ってずっと上流へ向かって、丹波の方まで開拓していくわけなんです。
――なるほど、高度な技術を持っていた一族だからこそ、そういうことができたと。
京に都を作る上でも秦氏が土木工事を全面的に請け負ったわけです。都ができた時、住民のおよそ6割から7割は秦一族の人たちだったんです。そしてここに都ができて、都ですから、いろいろな役所ができることになるんです。その役所の中に「造酒司(みきのつかさ)」というものがあるんです。これは何かというと、宮中というのは年がら年中お祭りをやるところなんですね。当時の政治っていうのはお祭りをやることなんです。そして、そのお祭りをやるためには何が必要かというと、お酒なんですよね。年がら年中お祭りがあって、そのお祭りの日に合わせてお酒を造らないといけない。その酒造りをする造酒司でも秦氏が多く働いていたと。麹を使った酒造りというものを日本に広めたのも秦氏だったと考えられています。
――そこで秦氏がお酒造りに関わるようになってくるんですね。
その頃、荘園というものができて、役所にどんどんお金が入ってこなくなるんです。役所を維持するのが難しくなってくる。そこでどうするかということで、質の高いお酒を造ってそれを売って儲けようということになるわけです。造酒司には秦氏の酒造りの技術がありますから、地方で造られていた酒よりもよほどおいしいわけです。都に人が集まってきて、その都で飲んだ酒がすごくおいしいと評判になる。そのお酒は誰が造っているんだということになって、それが秦氏の一族だと。その秦氏の総氏神が松尾大社だというので、松尾大社がお酒の神様だという風になっていくわけです。
――ちなみに、それ以前の日本の酒造りというのはどういうものだったんでしょうか。
酒造りそのものはもう縄文時代からやっています。『魏志倭人伝』の中にも……そこには250年前後の日本の様子が記録されているわけですが、「日本人は酒好きで祭りの時にお酒をすごく飲む」というようなことが書かれています。公的な文書の中にそう書くほどだから、当時の中国の人から見ても、よっぽどだったんでしょうね(笑)。つまり、日本の酒造り自体は古くから行われていたと、ただ、その当時は自然発酵であったりとか、口噛み酒のような方法で造っていたのではないか。それに対して麹を使った組織的な酒造りを広めたのが秦氏だったのではないかというのが一つの説になっているんです。ですから宮中で秦氏が酒造りを始めた頃も、地方ではまだ麹を使ってないお酒が主流だったはずで、そっちを普段飲んでいる人が麹のお酒を飲んだら、それは味が違いますよね。
――品質に違いがあったという。
酒造りの方法そのものは全国的に広まっていったんでしょうが、同じお酒を造るのにでも高い技術があるとないとでは味が変わってきますから。ちなみに京都の酒がうまいというのが全国に広まっていくのは室町時代の中期以降なんです。それがなぜかというと、応仁の乱があって、東北地方から、九州の方から、いろいろな地方から京都に人が集まって来たわけですよね。京都に集まって10年近く戦争というか、にらみ合いが続いて、その間に京都の文化に触れることになる。そこから自分たちの土地に帰って行った時に「京都で飲んだ酒はうまかった」と、「そのうまい酒は秦一族が造っていて、その氏神さんは松尾大社なんだ」と、そういうことが知られていく。さらに江戸時代になると、幕府が江戸にできて、そこに関西からいろいろな物が贈られていく。その中には当然お酒もあって、味がいいもので、「下り酒」と言ってますます重宝されるようになっていったと。
――そうなると松尾大社のことも全国的に知られていくんですね。
そうですね。江戸に京都のお酒が知られることによって、信仰も一緒に広がっていくわけです。江戸中期になると、日本の各藩の運営が苦しくなってきて、どこの藩も特産品を作って売っていかないといけない。米どころであればお酒を造って江戸という大消費地に持っていこうと考えるんです。その時には京都に来て、松尾大社の御分霊をいただいて、そして自分の土地に松尾神社を作って、そこに神様をお祀りしてから酒造りを始めるということが各地で頻繁に行われるようになります。
――その信仰が今も続いているという。
ただ、正式には松尾大社はお酒だけの神様ではなく、醸造祖神ですから、そこにはしょうゆもみそも入ります。しょうゆやみそを造る蔵の方々もお参りに来られますからね。
――そんな中、松尾大社では「酒-1グランプリ」というイベントも開催されていますよね。
今年(2026年)で9回目だったんですけど。コロナ禍で一年お休みしたので、10年前から始まったものです。元をたどると、私自身が個人でずっと「酒の会」というものをやっていたんです。私が選んだお酒と料理を楽しんでいただく集まりです。そこにゲストとしてお呼びしていた方の中に葉石かおりさんがいました。葉石さんは『おひとりさまの京都』という本を書かれていて、その中で京都の飲み屋さんをいろいろと紹介されていて、この人は面白いと思ってお声がけをしたんですね。それ以降何回かお越しいただく中で、葉石さんがある出版社に持ちかけている企画があると。それがどんなものなのかと聞くと、日本の何十もの蔵元さんに松尾大社に集まってもらって、そこでみんなでお酒を飲み比べてどこのお酒がおいしかったか投票して決めて、そしてそれを一冊の本にして出版しようというものだったんです。
――楽しそうな企画ですね(笑)。
その企画を進めていたんですけど、残念ながら途中で担当の方が辞められて頓挫してしまったんです。ただ、そこで葉石さんは諦めずに、京都リビング新聞社に企画を持っていって、本としての出版というのではなく、イベントとしてやってみようということになったんです。最初は500人という規模からスタートして、好評だったこともあって、続けていくうちに1000人規模になっていったんです。

毎年多くの人でにぎわうという「酒-1グランプリ」
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