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「特集」ウクライナ戦争 「地政学」を問う私たちはどんな世界に生きたいか

小泉 悠
東京大学准教授

はじめに

 地政学という言葉は世間にあふれている。本屋の国際情勢コーナーを眺めてみれば、そのように銘打った本がいくらでも見つかるだろう。

 しかも、氾濫する「地政学」の意味するところは多様である。国際的リスクという程度でこの言葉が使われる場合もあるし、シーパワーとランドパワーの対決という古典的論理で世の中の動向を読み解こうとするものもある。そうした地政学理解を鋭く批判した「批判地政学」の書もあれば、接続性こそが今後の鍵だと説く「接続性の地政学」論を提起するものもある。

 こうした中で、本稿が用いる「地政学」は、古典地政学のそれに近い。国家を(特に大国を)主語として、その勢力範囲がどこまで及ぶのかを巡って繰り広げられる角逐(かくちく)がその焦点だ。2022年2月24日にロシアが始めたウクライナへの侵略は、もはや過去のものと思われた古典的地政学の復活と言ってよいだろう。前述した「接続性の地政学」と対比するなら、「囲い込みの地政学」と表現することもできる。経済や普遍的価値観、環境、テクノロジーなどが圧倒的に重視されたポスト冷戦時代はいよいよ終わりを告げ、軍事力を中核とした剝(む)き出しの「力」が再び前面に躍り出る時代が、ここからは予感される。

二つの力の相互作用

 ただし、「囲い込みの地政学」は決して所与の前提ではない、というのが本稿のもう一つの中核的主張である。力の論理の重要性が高まっていることは間違いないが、それはこの世の中を駆動している全てではやはりない。

 もし、力の論理が全てを決めるなら、そもそもロシアの侵略は問題にもされなかっただろう。強い国が弱い国を支配するのは当然の理(ことわり)とされ、軍事大国であるロシアとの直接衝突を避けるためにウクライナをくれてやれという話になっていたはずだ。そうなっていないのは、問題解決の手段として戦争に訴えてはならないと定める国際法の力や、戦争の過程で起きる非人道的行為をもはや「仕方ない」とは思わない人々の倫理観が確かに一定の影響を及ぼしているからである。ウクライナの人々が、どうせ自分たちには関係のないことだとは思わず、これをわがことと考える意識(国民意識)を独立後の30年余りで育んできたからである。こうした規範の持つソフトな力は、152ミリ榴弾砲(りゅうだんほう)で全てを吹き飛ばしてしまうようなハードな力の行使を直ちに止めることはできないとしても、その帰結を変えることが確かにできる。

 また、ここで類型化した二つの力(ソフトな力とハードな力)は相互に全く無関係ではない。ウクライナが世界の支援を受けながら戦えているのは、同国の軍事力(ハードな力)があっという間にロシアに敗北しない程度には存在していたから、あるいはロシアの侵略を受け止めるだけの戦略的縦深を有していたからである。ウクライナが北大西洋条約機構(NATO)の国々と直接に陸上国境を接し、軍事援助の搬入が比較的容易であったことや、NATO自身が核同盟であるために、ロシアといえども軍事力を使って強制的に支援をやめさせるわけにはいかなかったことも無視できない。つまり、核による相互抑止というまた別のハードな力がここでは働いた。

 このようにしてウクライナは、戦争の最初期段階(ロシア語の軍事用語ではNPVと呼ばれ、戦争が短期で終わるか長期の消耗戦に至るかの重要な境目とみなされる)で敗北することを免れ、ソフトな力が効果を発揮するまで持ちこたえることができた。

日本への教訓

 以上の展開は、日本の安全保障を考える上で非常に重要な教訓を与える。

 ロシアのウクライナ侵略は確かにこの世界のありようを大きく変えたし、もう元には戻らない可能性が高い。大国が中小国を侵略するという事態が、教科書の中で学ぶ過去ではないことが明らかになった以上、ハードな力の均衡に基づいた抑止は、かつてない重要性を帯びていくはずだ。抑止がひとたび破れてしまうなら、後に残るのは「国民の犠牲を忍んでも抵抗する」か「領土や主権を奪われることと引き換えに当面の犠牲を避ける」かという極めて不愉快な二者一択であって、これを避けるためには抑止力に信憑(しんぴょう)性を持たせるほかない。

 つまり、大規模な侵略を撃退できるか、それがかなわないまでも相当程度の期間敗北しないだけの能力を持ち、その事実を潜在的な侵略者に認識させるための戦略的コミュニケーション(宣言、非公式の意思表明、演習、同盟の形成など)を行うことが求められる。言い換えるならば、実際に戦争を行って勝つ、または負けない能力を持ち、そのことを知らしめるという営みが抑止力の本質である。

 ただ、抑止力一本槍(やり)では不十分である、ということはここまで述べた内容から明らかであろう。自らが世界有数の通常戦力と核戦力を持つ大国はいざ知らず、多くの国はそうしたハードな力を持たない。とするならば、ソフトな力を下支えする国際法や倫理観は決して無力な絵空事としてバカにされるべきではなく、まさに自らの生存に直結する問題として扱われねばならない。日本のハードな力が(憲法の制約のみによらずして)制限されている以上、この点は非常に重要である。ハードかソフトか。そのどちらかだけではなく、両方がなければ、日本は簡単に古典地政学の論理に飲み込まれてしまう。

安全保障の在り方

 ただ、言うは易(やす)し、である。ハードな力とソフトな力をいかなる形で、またどのような割合で持つのかを具体的に考えてみると、そこには無限のバリエーションが存在する。

 例えばハードな力(より直截(ちょくせつ)にいえば軍事力)は、どの程度あればいいのか。大国が仕掛けてくる全面的な侵略に独力で対処しようとすれば、所要兵力はまさに青天井であり、しかも核保有が必ず求められる。日本の周辺に存在する懸念国は今や全てが核保有国であり、紛争がエスカレートする過程で必ず核使用(ないしその脅し)が想定されるからだ。現実には日米同盟による拡大抑止が効いているのだから、そこまでは考えずともよいとしても、何もかも米国に任せておけばよいということにはならない。そもそも、そんな日米同盟は米国にとって何のメリットもない以上成立し得ないだろう。とすると、まずは日本が抑止力のどこまでを担うのかという具体的な問題に突き当たる。

 これとは別に、ハードな力を保有するためのリソースは有限である、という問題が存在する。苦しい財政の中で、防衛にどこまで投資すればよいのか。5兆円なのか10兆円なのか。8兆円にしておいて、2兆円分は少子化対策や科学技術政策に回したほうが総合的な国力が高まるのではないか。その場合、当面のハードな力は抑止力に信憑(しんぴょう)性を持たせるに十分なものであるのか。抑止力を構想するということは、このような関数の塊を同時に解くということであり、しかもそこには絶対的な答えというものは存在しない。

 さらにここには、ソフトな力の構想という、別の関数の塊が絡んでくる。われわれが国際法や倫理観に忠実であろうとするなら、身動きが取れなくなってしまうだろう。人権侵害をしている国との貿易は全て止めるべきなのか。国際法や倫理への違反が起きていたら、自衛隊を送ってでも止めるべきなのか。そこまではしなくても…というなら、線引きはどこでなされるのか。誰もが同意する正解はやはり存在しない。

 とすると、安全保障の在り方とは、「われわれはどんな世界に生きたいのか」という問いに究極的には帰着する。ハード、ソフトな力によってわれわれは何を実現したいのか。朝起きてみたらどうなっていると絶対的に嫌なのか。家族や友人たちとどんなふうに過ごして人生を終えたいのか。希望が全てかなわないなら、どこまでなら受け入れられるか。こうしたイメージを欠いた安全保障議論は、ひたすら戦車や核弾頭の数やその使い方を論じるだけの無味乾燥なものか、ひたすらに理想を歌い上げるだけの空疎なものに終わるだろう。

不都合な強者の論理

 ここで本稿の「はじめに」に戻る。ロシアのウクライナ侵略は、世界を古典地政学の時代に、力の論理による「囲い込みの時代」に引き戻しかねない危険性をはらんでいる。ここで危険性というのは、古典地政学が基本的には強者の論理であって、弱者はその駒として扱われるに過ぎないからだ。もしも筆者が大国の戦略家であったなら、これこそ望むところであるのかもしれないが(多分、プーチン大統領や彼を取り巻く人々にとってはそうなのだろう)、筆者はそうした意味での大国ではない日本で生まれて育ち、死んだら実家の墓に入るつもりである。だから、古典地政学が復活する世界は甚だ不都合なものだと捉え、大いに反対する。

 地政学の時代? そうなのかもしれない。だが、そうではないのかもしれない。そこにはまだ疑問符が付いている。ハードな力とソフトな力を存分に駆使してあらがおうではないか。武器となる両者のミックスをどうするのかは、まさにわれわれに突きつけられた安全保障上の課題である。

東京大学准教授 小泉 悠(こいずみ・ゆう) 1982年千葉県生まれ。2007年早稲田大学大学院政治学研究科修士課程修了後、外務省国際情報統括官組織専門分析員、ロシア科学アカデミー世界経済国際関係研究所客員研究員などを経て19年東京大学先端科学技術研究センター特任助教。同センターで23年12月から現職。新刊著書に「オホーツク核要塞 歴史と衛星画像で読み解くロシアの極東軍事戦略」(朝日新書)。


(Kyodo Weekly 2024年1月29日号より転載)

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