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現代ロシア映画界の希望 【沼野恭子✕リアルワールド】

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 現在、ロシアの映画界で最大の話題になっているのは、ミハイル・ロクシン監督の『巨匠とマルガリータ』(2024)である。筆者はまだ見ていないので映画評は書けないが、この作品を取り巻く事情だけでも話題になる要素が盛りだくさんだ。

 まず原作が、20世紀ロシア文学の最高峰のひとつと言われるミハイル・ブルガーコフの長編『巨匠とマルガリータ』である。これは悲恋の物語にユーモアや喜劇の側面を併せ持つ幻想小説で、不遇だったブルガーコフの死後に発表され、今では大変な人気を誇る名作である。

 映画は、今年3月に発表されたロシア版アカデミー賞「ニカ賞」において、作品賞、主演男優賞、主演女優賞など7部門で受賞するという快挙を成し遂げた。制作費が10億ルーブル(約18・5億円)を超える異例の巨額であるらしい。

 ロクシン監督のプロフィルが極めてユニークだ。自身は1981年アメリカ生まれだが、祖父母がロシア帝国からポグロム(ユダヤ人襲撃)を逃れてアメリカに渡ったユダヤ系移民。しかし、アメリカで左翼活動に従事していた両親が86年に一家でソ連に亡命したため、彼はモスクワで育ち、モスクワ大学心理学部を卒業している。つまり監督自身がロシアとアメリカというふたつの文化を体現する存在なのである。

 彼の初めての長編映画『シルバー・スケート』(2020)はネットフリックス・オリジナルとしてリリースされ、視聴ランキングでいきなり上位に入り、注目を集めた。帝政時代末期のロシアを舞台に、向学心に燃える貴族の娘と、スケートが得意でひょんなことから窃盗団の仲間になってしまう貧しい青年の恋愛を描いた優れたエンターテインメントである。

 22年2月、2本目の長編となる『巨匠とマルガリータ』の撮影を終えた矢先に、ロシアがウクライナに侵攻したため、ロクシンはただちに反戦の立場を明らかにした。そのため、親ロシア政権の人たちからさまざまな批判を受けることになったという。にもかかわらず、24年1月よりロシア国内での上映が始まったのは「奇跡」と言えるかもしれない。ニカ賞も総なめにし、興行成績も上々だ。ロクシン監督の不滅の才能が、一時的な権威主義的検閲や横暴を乗り越えたということなのだろうか、まるでブルガーコフのように?

 先日来日して講演をおこなった気鋭の映画評論家アントン・ドーリンはこの作品を原作の優れた映画化だと賞賛し、人々に希望をもたらす映画だと語った。ロクシン監督はドーリンによるインタビューで(ウェブマガジン『メデゥーザ』24年2月16日)、戦争開始後に巻き起こった自分に対する誹謗(ひぼう)が『巨匠とマルガリータ』に出てくるスターリン時代のものにそっくりだということに気付いたと述べている。戦争という「新しい現実」がこの作品に、思いがけないアクチュアリティをもたらしたと言えそうだ。

 ロクシンの『巨匠とマルガリータ』は、この4月からヨーロッパで上映されていると聞く。ぜひ日本でも公開してほしいものだ。

【KyodoWeekly(株式会社共同通信社発行)No. 25からの転載】

沼野恭子(ぬまの・きょうこ)/ 1957年東京都生まれ。東京外国語大学名誉教授、ロシア文学研究者、翻訳家。著書に「ロシア万華鏡」「ロシア文学の食卓」など。

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