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「特集」  天皇、皇后両陛下結婚30年 雅子さまの思い 感情社会の振幅

 

鈴木洋仁 神戸学院大学准教授

 天皇、皇后両陛下は6月9日に結婚30年を迎えられた。心から寿(ことほ)ぎたい。一方で、後ろめたさを禁じ得ない。結婚30年に当たっての率直な思いである。

 令和へと代替わりして4年、コロナ禍に見舞われたものの、両陛下は広く国民をまとめる存在としての役割を果たしている、そういった評価が多いのだろう。オンラインでの行幸啓(ぎょうこうけい)をはじめ、東京2020オリンピック・パラリンピックへのかかわり、長女愛子さまとの仲むつまじい様子などが好評につながっている。

 しかし、この30年を振り返ったときに、どれだけ手放しで喜べるのだろうか。

 そう考えるのは、とりわけ皇后さまに向けられた視線が、「沸騰」から「忘却」に至ったのではないか、と思われるからである。彼女に向けられた過剰な期待と反動=沸騰、その裏表としての皇室全体に対する無関心=忘却、この二つの視点をもとに、30年間を顧みて、これからの課題と希望を示したい。

結婚前後の「沸騰」

 皇后さまは、「お妃(きさき)候補」に取りざたされたころから、常に沸騰のただ中にいた。1988年から90年にかけて留学していた英オックスフォード大学にまでテレビ局のカメラマンや雑誌記者らが押しかけ、「小和田雅子さん」時代の皇后さまを直撃している。帰国後は、より頻繁に東京・目黒区の自宅前に早朝から張り付いたマスコミにマイクを向けられた。

 「私人」であり婚約前であったため、警備はついていない。いかにも昭和的な取材手法は、令和の今であればインターネット上で批判にさらされたに違いない。今よりもはるかに倫理観が欠如していたばかりか、「日本人の最大関心事の一つは、間違いなく皇太子さまのご結婚相手」(当時のテレビ報道)との錦の御旗のもと、顔も名前もご本人の同意なしに堂々と報じていた。

 たしかに、浩宮さま(=天皇陛下)の結婚相手は「将来の皇后」であり、「最大の関心事」だっただろう。毎年2月23日の浩宮さまの誕生日にあたっての記者会見では何度も質問が出ていたし、皇族の歴史に照らせば結婚適齢期ともいえる以上、ご本人に聞くのは仕方がなかったかもしれない。だからといって、そのお相手(候補)にも同じ扱いでいいのだろうか。そうした疑問は、メディアにはもちろん、多くの人たちにとって「沸騰」の渦のなかで消し飛んでいた。

 92年2月13日には宮内庁と報道機関が「報道自粛協定」を結び、加熱する取材の鎮静化を図ったが、翌年の1月6日、協定に加わっていなかった米ワシントン・ポスト紙のスクープによって破られる。

 そこからの沸騰は、自粛の反動もあってか、すさまじいものだった。

 93年1月19日の皇室会議の直後、同23日と24日に読売新聞が実施した世論調査を見よう。お2人の結婚に「好感を持つ」と答えた割合は、「非常に」(57%)と「多少は」(33%)を合わせて90%に上り、性別では女性が94%と男性(86%)を大きく上回った。「好感を持たない」は3%に過ぎず、「関心がない」も7%にとどまるなど、ほとんどの人たちが熱狂した。

 皇后さまは米ハーバード大学卒業後、東京大学を経て外務省ではエリートコースとされる北米局北米二課に配属、父親の小和田恆氏は外務省事務方トップの事務次官などを歴任するなど、華々しいだけではない。新しい時代=平成にあった「開かれた皇室」を実現してくれる。そんな大きすぎる期待が沸騰した。その熱は、ほどなくして過度な「お世継ぎ」へのプレッシャーへと変わる。

「沸騰」から「忘却」へ

 結婚の翌年、94年2月9日のお2人そろっての記者会見では早速、「おめでたを取りざたする向きもある」との質問が飛ぶ。雅子さまの風邪が少し長引いただけなのに、「ご懐妊」の噂が飛び交っていたのである。お2人の答えは「コウノトリのご機嫌に任せて」という婚約時の文言を重ねたものであり、世論もまだこの時は落ち着いていた。

 徐々に強まるプレッシャーは、99年12月10日、朝日新聞の「雅子さま、懐妊の兆候」で頂点に達し、それに続く稽留流産とともに、「ご懐妊」をめぐる沸騰が起きる。流産による心労、男子を望む声、結婚からの年月、さまざまな要素は圧力でしかなかった。

 2年後に懐妊が発表され、同年12月1日に愛子さまが生まれた時も、ご生誕を祝う声とともに「次は男子」という無神経な発言もまた多く聞かれることになる。

 女性だけではなく男性にとっても、さらには性自認を問わず、流産はつらい。当時の皇太子さまと雅子さまは、その痛みを2年弱で乗り越えて、玉のようなお子さんを産む。にもかかわらず、「男系男子」にこだわる人たちは、消えないどころか勢いを増した。

 世間ばかりか、本来は味方であるべき人たちさえ、お2人にとっては安心できる関係を築けなくなったのだろう。2003年には、雅子さまが帯状疱疹(ほうしん)で宮内庁病院に入院し、公務を休む。

 翌04年5月、皇太子さま(当時)は記者会見で「雅子のキャリアや、そのことに基づいた雅子の人格を否定するような動きがあったことも事実です」と発言する。唐突な「人格否定発言」の衝撃の冷めやらぬまま、7月には雅子さまへの「適応障害」との診断が発表され、再び世論は沸騰する。公務を果たしていない、お世継ぎも産まない、といった、お2人への反発は、当時の天皇や秋篠宮からの苦言も出るにおよび、四面楚歌(しめんそか)に追いこまれる。

 社会すべてが敵になったかのような状況は、その2年後、秋篠宮家に男児=悠仁さまが生まれたことで、一気に「忘却」へと至る。「男系男子」として皇位を継承できる存在ができた、その一点に向かって日本中が沸騰し、皇太子ご夫妻の苦悶も、「次は男子」といった望みも、すべて忘却の彼方へと消し去っていったのである。

「忘却」すら「忘却」

 私たちの社会は、結婚前後の沸騰はもちろん、流産から「人格否定発言」にいたる過程での沸騰も、さらには、悠仁さまの誕生時の沸騰も、すべて「忘却」したのではないか。

 さらには、2016年から19年にかけての天皇退位を巡って沸騰した上皇ご夫妻に対する尊敬の念の高まりもまた、忘却しているのではないか。

 実際、NHKが5年おきに実施している「日本人の意識」調査では、1993年の皇太子さま結婚の際には、天皇に対して「好感をもっている」と答えた割合が過去最高の42.7%に達し、若いお2人への親近感がイメージアップに貢献した様子がうかがえた。平成の間、当時の天皇、皇后両陛下が、さまざまな形で「象徴としての務め」を果たされるに伴って、93年には20.5%に過ぎなかった「尊敬の念」は、2018年には41.0%へと倍増する。

 けれども、ここ数年の、小室眞子さんの結婚を巡る世の中の空気をはじめ、秋篠宮家、さらには悠仁さまへの風当たりの強さを見るにつけ、こうした30年の紆余(うよ)曲折など、ほとんど誰も覚えていない=「忘却」しているのではないか、と疑わざるをえない。さらに言えば、「沸騰」を「忘却」したことそのものをも「忘却」しているのではないか、と考えざるをえない。

「忘却」を止めるために

 皇后さまへの過度な同情を誘いたいわけでもないし、かといって、皇后さまにふさわしく積極的に公務に励むべきだ、などとあおりたいわけでもまったくない。

 皇后さま自らの肉声が聞こえてこない。聞こえてこないから拝察や憶測ばかりが飛び交う。さらにご本人は発言を控える。こうした堂々巡りが、忘却の忘却を加速させている。この点を指摘したいのである。

 もちろん皇后さまは、必要に応じて書面でお気持ちを表してきたし、それを天皇陛下が代弁されてきた。「雅子さんのことは、僕が一生全力でお守りしますから」とのプロポーズの言葉の通り、身をていして30年を送ってきた。感動するほかない。

 しかし、だからこそ、私たちは、あの沸騰と、その後の忘却を振り返らなければならない。今が良いのだから過去をうやむやにする、のではなく、天皇、皇后両陛下が全身全霊で示してきた誠実さを、今こそ受け止めなければならない。

 むやみに尊崇するのでもなく、無慈悲に罵倒するのでもない。この30年間の、私たち一人一人の両陛下をはじめとする皇室への感情の揺れを冷静に見直し、今の態度を顧みる。お2人が残してきた言葉の数々に真摯(しんし)に向きあえば、おのずとそれぞれの答えは見えてくるに違いない。 

神戸学院大学准教授 鈴木 洋仁(すずき・ひろひと)/1980年東京都生まれ。東京大学大学院学際情報学府博士課程修了。博士。京都大学総合人間学部卒業後、関西テレビ放送、ドワンゴ、国際交流基金などを経て現職。専門は歴史社会学。著書に「『三代目』スタディーズ 世代と系図から読む近代日本」(青土社)、「『ことば』の平成論 天皇、広告、ITをめぐる私社会学」(光文社新書)など。

(KyodoWeekly 2023年6月5日号より転載)

 

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