「特集」ベルファスト暴動が暗示する不穏な未来 日本でくすぶる排外主義の深層
ロンドン(CNN) 英北アイルランドの中心都市ベルファストで起きた刃物による襲撃事件に関連して30歳の男が殺人未遂容疑で逮捕されたことを受け、ベルファストや首都ロンドンなど各地に暴動が広がっている。 (CNN『英各地で暴動、車両などの放火相次ぐ 北アイルランドの刃物襲撃事件発端に』=2026年6月10日より引用)
「移民狩り」の暴動
2026年6月、北アイルランドの中心都市ベルファストで起きた刃物による襲撃事件を発端に、英国各地で反移民的な暴動が広がった。報道によれば、ベルファスト北部で男性が刃物で襲われ重傷を負った事件に関連し、スーダン出身で難民の30歳男性が殺人未遂容疑などで訴追された。直後からベルファストでは反移民デモや抗議活動が急速に激化し、ついには「移民狩り」を目的とした若者グループが現れて一部が暴徒と化し、車両やバスへの放火、移民や難民申請者および住居への攻撃、警察との衝突へと発展した。抗議はロンドンをはじめ英国各地にも波及し、社会の緊張を一気に高める事態となっていた。
今回、怒りが急速に燃え広がった背景には、25年12月に英南部サウサンプトンで起きた白人男子学生刺殺事件をめぐる警察対応への反発があった。加害者であるシーク教徒の男性が警察に「人種差別的な言動を受けた」と説明したため被害者が現場で一時的に容疑者のように扱われ、その後死亡した。当時の現場の映像を26年6月2日に警察が公開。苦しんでいる被害者が手錠をかけられる様子が写っていた。事件は英国社会に強い衝撃を与えていた。
現場に居合わせた警察官に混乱がなかったとは言い切れないのだが、なんにせよ多くの人々がSNSに拡散された事件の映像を見て感じたのは「白人が血を流して倒れていても、国家権力は『加害者かもしれない』と怪しむのでは?」という不信感だった。
事件の動揺が収まらない中でベルファストの刃物事件が続いた。こうして、警察対応への不信と移民政策への不信が結びつき、反移民的な怒りは急拡大した。
「おれたちは二級市民なのか」という怒り
言うまでもないが、いかなる理由があろうとも、移民の住居に火を放ったり、外国人らしき人びとを街頭で追い回したりするような暴力は正当化しようもない。しかしながらそのことを確認した上でなお、今回の出来事を単なる「極右の暴走」や「排外主義者の扇動」として片づけるならば、問題の核心を見誤ることになる。
英国でマグマのごとく噴き上がった怒りの根本には、移民や難民申請者への不信だけでなく、国家権力や治安当局そのものへの深い不信がある。その不信をより正確に言語化するならば、「国家は本当に自国民を守っているのか」「自分たちは国家から〝二級市民〟のように扱われているのではないか」という疑念である。
この「二級市民扱い」という感覚は、制度上の身分や法的権利の話ではない。たとえば英国籍の白人市民が法律上の権利についてなんらかの制限を受けたということではもちろんない。ここでいう二級市民とは、社会的、政治的、文化的、道徳的な意味での優先順位のことだ。すなわち、自分たちの不安や恐怖だけが、なぜか正当な申し立てとして扱われないという違和感、あるいは疎外感である。
仮に移民やマイノリティーが恐怖を訴えれば、それは「差別への恐怖」「排外主義への不安」「社会的弱者の痛切な訴え」として受け止められ、行政もメディアも政治家も、それを丁寧に聞き取ろうとする。むろんこれは本来、望ましいことである。差別や排外主義によって不利益を受ける人々の声は見過ごされるべきではないし、社会全体の課題として真摯に扱われなければならない。
だが一方で、長年その地域に暮らしてきた住民が「治安が悪化しているのではないか」「生活圏に急激な変化が起きて不安だ」「凶悪事件が起きたとき、本当に自分たちは守られるのか」といった素朴な感覚で訴えた場合、その感情は酌まれるどころか、しばしば「差別」「偏見」「ヘイトスピーチ」「分断の扇動」として分類され処断されてしまう。少なくとも、そのように受け取られている。この非対称性に、彼らは前々から鬱屈した感情を抱えていたのである。
国家と市民の約束
近代国家とは、突き詰めていえば、契約である。
つまるところ「国家が市民の生命と安全を守るから、市民は暴力を国家に預ける」という契約の上に成り立っている枠組みである。市民は税金を払い、法律を守り、私的闘争、自力救済を禁じられる。警察があるからこそ私闘をしない。裁判所があるからこそ報復をしない。国家が公平に暴力を管理し、秩序と公正の維持のため、適切な対象に適切な暴力を行使するという信頼があるからこそ、市民は自分で武器を取ることを控える。
ところがその国家が、現実の恐怖や苦痛から自分たちを守るよりも先に、「差別と見なされないこと」「移民政策の失敗を認めないこと」「多文化共生という建前を維持すること」を優先しているように見えたとしたら? 当然、市民はこの契約が破られたと感じるだろう。国家に暴力を預けたにもかかわらず、その国家が自分たちを守らない。いやそれどころか、自分たちの不安を差別や偏見として取り締まる側に回っている。そう感じたとき、人々は国家への信頼を失う。
国や当局は自分たちの訴えを聞いてくれない、自分たちの被害を守ってくれない―そういう不信感や絶望感は、やがて自警主義(ビジランティズム)にたどり着く。まさしくベルファストの混乱のなかで出現した反移民的な自警団的グループはその類型である。
ベルファストで「移民狩り」を展開した彼らは、客観的に見れば秩序や公平を破壊する無法者だが、しかし彼らの主観においては、国家が契約を誠実に履行しなかったのだから、自分たちは国家に預けていた「私闘」「武装」「自力救済」の権利を取り戻し、自分たちで身を守るしかないというロジックが内在していた。
日本にとっても対岸の火事ではない
この問題は、外国人が急増する近年の日本にとっても対岸の火事ではない。
もちろん日本がただちに英国や欧州のような緊迫状態になると言いたいわけではない。もとより移民の規模も、宗教的・民族的分断の歴史も、社会環境も大きく異なる。なおかつ日本には依然として高い治安水準があり、社会の秩序を保とうとする国民性もある。従って、英国で起きているような反移民暴動のうねりがそのまま日本に輸入されると考えるのは短絡的である。
だからといって、「日本は絶対に大丈夫」とまでは言えない。なぜならこの問題の本質は単なる移民の数の多寡ではなく、優先順位に紐づく公平感の問題だからである。外国人や移民をめぐって事件や摩擦が起きたとき、国家や行政やメディアといった「権威」が、まず誰の不安を正当な訴えとして扱うのか。誰の恐怖を保護し、誰を危険視するのか。この優先順位の問題が、社会の信頼を左右する。
日本でも近年、外国人労働者、留学生、観光客、在留外国人、難民申請者などをめぐるトラブルが可視化される場面が増えている。もちろん、外国人といっても国籍、在留資格、生活実態、地域社会との関わり方はさまざまであり、それらを一括りにして論じることはできない。日本で暮らす外国人の多くは、普通に働き、普通に税金を払い、普通に地域社会の一員として暮らしている。その前提は忘れてはならない。
しかしその上でなお、地域住民の側に不安や不満が生じることもまた自然なことだ。言葉も文化も生活習慣も違う人々が急に増える。ごみ出し、騒音、交通マナー、学校現場、行政窓口、住宅、治安など、生活の各所で摩擦が起きる。外国人が関わった凶悪事件や悪質なトラブルが起きれば、「なぜこの人物がここにいたのか」「なぜ地域住民がそのリスクを負わなければならないのか」という疑問が生まれる。これらはごく自然な反応だ。
不安が地下に潜るとき
これらの感情を、最初から「差別」や「排外主義」として切り捨ててしまえば、社会はむしろ危険な方向に向かう。なぜなら不安はそれを語らせなければ消えるわけではないからだ。口に出せなくなった不安は地下に潜る。そして地下に潜った不安は、外からはどれだけ大きく膨らんでいるのかが見えなくなる。そうしてある事件、ある映像、ある行政対応、ある報道のされ方をきっかけに、一気に噴出する。その時には、取り返しのつかないほど大きなうねりになって。
住民が「怖い」と言う。それに対して知識人が「差別するな」と返す。住民が「治安が悪くなっているのではないか」と言う。それに対してメディアが「統計上は問題ない」「偏見を煽るな」と返す。住民が「なぜ自分たちばかりが我慢を求められるのか」と言う。それに対して政府が「多文化共生のために理解を深めましょう」と返す。
もちろん、どれも一理ある。差別はいけない。偏見を煽ってはいけない。個別事件を全体に一般化してはいけない。多文化共生のための努力も必要である。すべて正論だ。しかし、正論を言いっ放しにして、「あなたたちの不安にも理由がある」「あなたたちもまた守られるべき市民である」「国家はまずこの地域の安全と秩序を守る」という言葉と行動が欠ければ、それらの正論は単なる道徳的な叱責として受け取られる。
外国人問題の深層
その地域の人びとが本当に怒るのは、外国人が存在することそのものではない。
もちろん、単純な排外感情がまったく存在しないとは言わない。しかしながら、大半はそのような邪な動機を持たないごく平凡な市民である。そんな平凡な市民をすら排外主義的な感情に傾けてしまうのは「自分たちの不安だけが正当に扱われない」という疎外感である。
外国人が不安を訴えれば「保護すべき声」になる。地域住民が不安を訴えれば「差別の芽」として管理される。この非対称性が積み重なったとき、人びとは、自分たちはこの国の主権者ではなく、国家の掲げる道徳的理想のために我慢を求められる存在なのではないかと感じ始める。
近年の日本では「日本人ファースト」という言葉が一定の支持を集めている。このスローガンを掲げる政党「参政党」は、国政でも地方議会でも躍進を続けている。おそらくはこの背景にも優先順位をめぐる不満がある。自分たちの税金で、自分たちの生活圏に、自分たちが十分に納得していない政策が持ち込まれ、そのコストだけを負わされているのではないか。だがそれに表立って異議を唱えると、今度は自分たちが「差別主義者」として裁かれるのではないか。こうした感覚が静かに広がっているのである。
口先の理念ではなく
日本が欧州と同じ未来をたどらないために必要なのは、外国人問題を語ること自体を封じることではない。むしろ逆である。外国人をめぐる不安や摩擦を、できるだけ早い段階で、できるだけ公正な言葉で、制度的に処理することだ。
「差別はいけない」と口で言うだけでは足りない。「外国人も大切な隣人です」と説くだけでも足りない。口先の理念ではなく、行動をともなって「この国の市民は国家によって守られている」という基本的な信頼を維持しなければならない。その信頼が崩れたとき、人びとは国家ではなく、自分たちの権利の返却を求め始める。
そして一度そうなってしまえば、もはや誰にも制御できない。英国で起こった反移民暴動は、移民政策の問題であると同時に、国家と市民の保護契約が揺らいだときに社会がどこへ向かうのかを示す警告である。日本にはまだ時間的猶予がある。だからこそ、今必要なのは、不安を封じることではなく、それぞれの不安を公正に扱う言葉なのである。
文筆家・ラジオパーソナリティー 御田寺圭(みたてら・けい) 会社員として働くかたわら、「テラケイ」「白饅頭」名義で広範な社会問題についての言論活動を行う。著書に『矛盾社会序説 その「自由」が世界を縛る』(イースト・プレス)のほか、『ただしさに殺されないために 声なき者への社会論』(大和書房)などがある。
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