「特集」ゲームチェンジの行方 学校から地域、社会を変える能力主義にしばられない学校組織を 【下】安心して語り合える教室、職員室をつくるために

勅使河原さん(撮影=武内太郎)
12月1日号掲載の「能力主義にしばられない学校組織を(上)」の(下)をお送りする。組織開発コンサルタントの勅使川原真衣さんは前回、「能力主義を見直さないかぎり、学校だけが変わることは難しい。このままでは先生も子どもも疲弊し続ける。たとえるなら、(能力主義は)よくわからないまま誰かに履かされた〝見えない靴〟です」と指摘した。
私たちがいや応なく履かされた〝靴〟とどのように向き合い、〝靴〟を脱ぐためのヒントを示している。(編集制作部)
※記事はベネッセ教育総合研究所のウェブサイト「VIEW next ONLINE」からの転載で、リード部分を除き、文・取材は太田美由紀さん。
* * *
―「機能」とは例えばどんなことですか?
例えば、アクセルを踏みやすい人とブレーキをかけやすい人がいるとします。いろんなアイデアを思いつき、「すぐにやってみましょう」とアクセルを踏んで旗を振る人だけで動くと、いろんな問題が出てくることがあるかもしれません。そこに、ブレーキの資質を持ち合わせている人を組み合わせることで、「もう一度この懸念点を検討しましょう」と、慎重にリスクマネジメントができますよね。
私はよくレゴブロックにたとえるのですが、一つのピースだけで完璧に全てを体現できるパーフェクトなブロックはありません。形も大きさも色も違うブロックを、どう組み合わせるか。それによって、同じ部品でも全く違うものを組み立てることができる。
誰かが全てを一身に背負う必要はありません。ブロックで船をつくるときには、小さな船の形の一つのブロックで完結するよりも、旗の形や平らなブロック、丸みのあるブロックなど、さまざまなブロックを組み合わせることで、より大きくかっこいい、思い通りの船が出来上がります。
学校でも、先生一人一人が持っている「機能」やそれぞれの「味」を組み合わせることが必要なのだと思います。
―ブロックの組み合わせをイメージするととてもわかりやすいですね。そのほうがお互いのよさを活かしやすい。「味」の組み合わせと考えるのも面白そうです。
「味」は評価できませんよね。すっぱい味がよくて、辛いのや甘いのはダメということはありません。それぞれの「味」を組み合わせながら、よりその「味」が生きる組み合わせを考えるわけです。混ぜ合わせるとより深みが出ることもありますし、ときに、混ぜてしまうと美味(おい)しくないものや、危険なものもあります。水と油は混じり合わないということもありますから注意は必要です。
ですから、逆に、うまくいかないときは、「味」の組み合わせが良くなかったんだなと考える。そうすれば、「あの人が悪い」とか「なんでわかってくれないんだ」と攻撃し合うことにはなりません。
企業でこの考え方を実践すると、人が辞めなくなりますし、製造業などでは若手からアイデアが出るようになり、新製品が生まれることも増えていきます。
子どもの言動を「面白がる」ことができているか
―これまでにご覧になった教育現場でそのような実践をしている例はありますか?
ある公立小学校の先生の授業を見学して、一人一人をよく見て合理的環境調整をされているなとおどろいたことがあります。
私が子どもの頃、学校では空気を読んで気がきく子、先生の顔色を見て動ける子が評価されたり重宝されたりすることがよくありました。つまり、先生がやってほしいことを先回りしてできる子です。そうすると、その子一人に仕事が集まってしまう。先生もきっと職員室の中でそのような環境にあると思います。
でもそのクラスでは、善し悪しをつけずにそのままのその子をよく見ていらっしゃいました。例えば、私がうかがった日、授業中に寝そべっている子がいました。外から見学に来た私のような人がいるのに寝そべっているということは、多分いつも寝そべっているんですよね(笑)。
その先生は、「なんで寝てるんだ」「いつになったらやるんだ」でもなく、「近いからカーテン閉めてくれる?」とその子に自然にお願いしていました。「できる子」「空気を読める子」だけが活躍して、ルールを守れない子は叱られる、無視されるのではなく、全ての子が何かしらの「機能」として存在できる教室でした。
―なかなか意図してできることではないかもしれないですね。これを一つ許してしまうと、子どもたちをコントロールできなくなるんじゃないか、と考える先生も多い。
そういう一瞬の戸惑いや、大人の葛藤も子どもたちに伝えてもいいと思うんですよね。思っていることと違うことを言っていたり、言葉でコントロールしようとしたりしても、先生が生身の人間としてそこにいるかどうかは子どももすぐにわかります。その先生は、大前提として子どもたちのことをとても面白がっていました。
「自分が大事にしているものを持ってきて自己紹介する」という授業の準備では、「家族を連れて来たい」「ニンテンドースイッチ(家庭用ゲーム機)でもいいですか」などいろいろな意見が出ましたが、どんな意見も本気で面白がっていました。
子どもの言動を「面白い」「なるほど〜」「そうきたか」という視点で先生が楽しんでいると、授業に参加させるために頑張らなくても、子どもたちが授業に参加したくて仕方がなくなるんですね。「ここではこういう答えが求められているのだろう」と子どもたちが察する必要がない環境が整えられているからだと思います。
子どもたちには、あのクラスのように、「自分が考えたことや自分の思いを言っても大丈夫だった」という経験をしてほしい。あの教室で、こんなこと言っても平気だった、自分のことを話したら受け止めてもらえた、という経験。評価されるために発言するのではなく、話すこと自体が歓迎される場。そういう経験が、その子の中にずっと残っていくことが何より大事だと思うのです。
「私たち本当にすごい仕事をよくやっているよね」と言い合うところから
教員も同じで、言動について評価されてしまうと、何かをすることが怖くなります。ほめることも評価につながりますから、「ほめる」より「面白がる」じゃないかと思います。子どもたちって見ていると面白いですよね。それを面白がれない先生がいるとしたら、やはり職場の能力主義で自分自身が苦しんでいるとか、余裕がないというサインなのかもしれません。
―親としても社会人としても、同じことが言えそうですね。何かしら評価される状況にいると、子育てや仕事を「面白がる」余裕がどんどんなくなっていきます。そのような状況に陥っている職場の場合、突破口に難しさがあると思います。
企業の場合、〝ワンオンワン(1on1)〟といって、上司と部下が定期的に1対1で話す面談のような場があるのですが、よくお伝えするのは、「私にはこう見えている」という表現を使って話しましょうということです。
「あなたのやり方は間違っている」「あなたはこの点が足りない」などと指摘したり攻撃したりするのではなく、まず相手を承認してから、「私からはこういう場面でこんなふうに見えていました」と伝えるところから対話を始めるように変えていきます。
「よくやってくれて助かってるよ」
「全部自分ができるわけじゃないから、マジで助かるわ。でもさ、ごめんね、この間のあれは僕の目からこんなふうに見えたんだけど、どうかな?」
「私はこんなふうに見えているんですけど、まだ見えていないところもあると思うので、教えてほしいんです」
上司からも部下からもそんな話し方ができるようになってくると、その後の話し合いが大きく変わります。学校の授業研究などでも同じだと思います。
「ここができてなかった」「もっとこうしたほうがいい」などのダメ出しや、評価の前に承認が必要です。
先生は教える側ですから、正解がある前提から始まるという面もあると思うのですが、それこそが限界をつくっている。誰も答えを持っていない、正解はないという前提で話し合ってみると、ずいぶん変わるはずです。
「あなたがそう思うのはよくわかるよ」と誰かが言ってくれると、それだけで救われる。大事なのは、誰かが正しいことを言うことじゃなくて、その人の見えている世界に耳を傾けることだと思います。

「「能力」の生きづらさをほぐす」勅使川原真衣著、どく社
―承認される場があってこそ、人は安心して「じゃあ次はこうしてみよう」と動き出せるのかもしれませんね。
子どもたちは社会に「適応する」ことが大事だと思われていることが多いのですが、「抵抗する」という選択肢も持っていてほしい。全部に逆らうということではなく、自分で考えて、自分の生き方を選んでいけるといいなと思うのです。
学校もまだまだ能力主義的にしなければならない場面もあるかもしれません。成績をつけることを全ての学校がやめるということは無理でも、学活や休み時間など、痛みのないところから小さく始めることでずいぶん変わっていくはずです。
社会も一気に変わりませんから、わが子をはじめ、子どもたちには能力主義のからくりは伝え続けなければとも思います。
たとえば、あまり言語化が得意ではなく絵を描くことが好きな子なら、「うまいこと言える人が勝ちやすい世の中かもしれないよね。でも自分で選べるんだよ。勝ちたいならそうしたほうがいいかもしれないし、自分はそうじゃないと思ったら、絵を描き続けたらいいよね」と。
世界は複雑化しすぎて、企業はすでに正解はないことを体験的に思い知らされています。経験や年齢だけではどうにもならない。
学校はどうでしょうか。学校も、究極的には学校に行かなくても知識の獲得ができる時代になりました。私たちはどうして学校に行くのだろうと考えたとき、学校は子どもたちを序列化して傷つける場ではないはずです。
教育の役割はやっぱり大きい。学校って、家庭以外で子どもたちの存在を承認できる初めての場ですよね。「どんなあなたであれ、何ができようと何ができなかろうと好きだよ」と子どもたちに伝えられる場です。
いま先生であるとしたら、いま先生を目指しているとしたら、それだけで、「私たち本当にすごい仕事をよくやっているよね」と言い合える仕事だと思います。
先生たちは、「みんな元気によく学校に来たね」と子どもたちに伝える場面があると思います。先生自身も、ぜひお互いに、「よく来たね先生。(憂鬱(ゆううつ)だったり、しんどかったりしたのに)本当によく来たね」と伝え合ってください。
嘘(うそ)をつかないことも大事です。「人間全て、ほころびがある」という前提がそのためには必要で、みんな未熟で、未熟上等なのです。しんどいときもあるし頭に来ることもある。そういうことも含めて、先生同士で話してみることから始めていただけるとうれしいです。
組織開発コンサルタント・著作家 勅使川原真衣(てしがわら・まい) 1982年、神奈川県生まれ。慶應義塾大学卒業、東京大学大学院教育学研究科修士課程修了。外資系コンサルティングファーム勤務を経て、2017年に組織開発を専門とする、おのみず株式会社を設立。2児の母。2020年から乳がん闘病中。著書に『「能力」の生きづらさをほぐす』(どく社)、『働くということ「能力主義」を超えて』(集英社新書)、『職場で傷つく』(大和書房)、『学歴社会は誰のため』(PHP新書)、編著書に『「これくらいできないと困るのはきみだよ」?』(東洋館出版社)など多数。教育専門誌『教職研修』(教育開発研究所)で「みんなの職員室」好評連載中。
(Kyodo Weekly 2025年12月8日号より転載)
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