小児期の逆境体験(幼少期の心の傷)が 遺伝子レベルの変化を引き起こし、脳の発達に影響を及ぼす
― 予防と支援への新たな手がかり
令和7年10月15日
国立大学法人 福井大学
国立大学法人 広島大学
〈本研究成果のポイント〉
◆ 小児期の逆境体験(本研究においては、大人から子どもへの不適切な関わり [マルトリートメント、略してマルトリ])が子どもの「DNA上の化学修飾にしるし」として残る部分を明らかにしました。司法解剖例や児童相談所の介入を受けた子どもを対象にした世界最大規模の網羅的な遺伝子解析による成果です。
◆ 遺伝子解析に加え、世界最大規模の頭部MRI撮像による脳構造解析も同時に行い、感情や記憶、人との関わりを担う脳部位に違いを見つけ、それらは上述の網羅的な遺伝子解析で見つかった変化と関連することも明らかにしました。このようなデータ駆動型の証明は、より客観的で確かな発見と言え、マルトリを経験した子どもの心身の問題の機序解明につながる可能性があります。
◆ この発見は、マルトリを早く見つけ出し、子どもを守るための新しい方法につながると期待されます。
〈概要〉
福井大学と広島大学の共同研究チームは、司法解剖例・児童相談所の介入後間もない乳幼児・児童相談所の介入後で頭部MRI撮像を受けた思春期の子どもたちと、一般の子どもたちを対象に網羅的な遺伝子解析の比較をマイクロアレイという手法で行い、マルトリを経験した子どもに特徴的に見られる4つのDNAメチル化部位(CpG部位)注1の違いを発見しました(図A)。また、胸腺重量比、認知機能測定、頭部MRI撮像による脳構造解析も同時に行い、感情や記憶、人との関わりを担う脳部位に違いを見つけ、それらは上述の網羅的な遺伝子解析で見つかった変化と関連することも明らかにしました(図B)。本研究で捉えた4つのDNAメチル化変化に基づく「メチル化リスクスコア(MRS)」注2は、独立した外部データでもマルトリを経験した子どもを一定の精度(AUC=0.672)で判別可能であることが確認され、マルトリ(子ども虐待)リスクの客観的評価に活用できる新たな生物指標として社会的・臨床的意義が期待されます(図C)。
〈研究の背景と経緯〉
小児期の逆境体験(大人から子どもへの不適切な関わり [マルトリートメント、略してマルトリ])は、身体的・心理的・神経発達的に、将来深刻な悪影響を及ぼすことが知られています。近年、DNAメチル化注3を中心とするエピジェネティックな化学修飾が、こうした長期的影響のメカニズムの一つとして注目されています。
福井大学子どものこころの発達研究センターの西谷正太特命講師、友田明美教授と、広島大学法医学研究室の長尾正崇教授の共同研究チームは、日本医療研究開発機構 成育疾患克服等総合研究事業(令和2-4年度)などの助成を得て、マルトリを経験した子どもに特徴的なDNAメチル化(エピジェネティクな化学修飾)と脳の構造変化を明らかにしました。
本研究では、以下の3つの独立した集団を対象に、どこかの候補遺伝子だけに絞るのではなく、エピゲノム注4全体を対象とした網羅的な解析(約85万箇所)を行ったことで、多くある研究の中でも、とりわけ信頼性の高い結果を得ました。
1.司法解剖例(被虐待児:11名、対照児:7名)
2.乳幼児(社会的介入後間もないマルトリ児:36名、対照児:49名)
3.思春期児(社会的介入後の脳MRI撮像を受けたマルトリ児:61名、対照児:62名)
各集団を個別に解析した後、さらに3つの結果を統合したメタ解析を行い、マルトリ経験に共通して関連するメチル化部位(CpG部位)を探索しました。
その結果、ATE1、SERPINB9P1、CHST11、FOXP1の4つの遺伝子内にあるCpG部位で有意なメチル化の変化が見られました(図A)。特にFOXP1遺伝子注5のメチル化は、以下のような脳の構造変化と関連していました:
・眼窩前頭皮質および帯状回中・後部注6の灰白質注7体積増加
・後頭葉の紡錘状回注8(視覚領域)の灰白質体積減少
これらの脳部位は、感情調整、記憶想起、社会的認知に関与する領域であり、マルトリ経験と後年の精神疾患との神経生物学的関連を示唆するものです(図B)。
さらに、このメタ解析から絞り込まれたDNAの変化をもとにした「メチル化リスクスコア(MRS)注2」は、この研究とは独立した外部のデータセットにおいて、マルトリ経験の有無をこれらメチル化の値から一定の精度(AUC注9=0.672)で判別可能であった、という妥当性の検証も行っていることから、新しい生物指標(バイオマーカー)としての有用性も期待されます(図C)。将来的には、子どもを早期に社会的な支援につなげるためのスクリーニングツールや予防医学に発展することが期待されます。
本研究は、マルトリ経験に伴うエピジェネティックな変化の新たな理解を提供するとともに、早期発見・予防・治療介入のためのバイオマーカー候補を示し、マルトリ経験の世代間連鎖を断ち切ることへの貢献を目指したものです。すなわち、「マルトリ経験は見えない傷を残す」ことを科学的に可視化するとともに、その痕跡を読み取り、次世代を守る道筋を示しています。
友田教授は、「子どもの心はまだ発達途中で、大人のような耐性は十分ではありません。だからこそ、日々の関わりの中で、子どもの心をそっと支えながら育てていくことが大切です。」と話しています。
〈参考図〉
図A: ATE1、SERPINB9P1、CHST11、FOXP1遺伝子における有意なCpGメチル化変化の検出
図B: 全脳灰白質容積の比較(VBM)とDNAメチル化:FOXP1・CHST11・ATE1遺伝子と脳の構造変化の関係
図C: マルトリ経験リスクを示すDNAメチル化指標の妥当性検証
〈用語解説〉
(注1)DNAは「A・T・G・C」という4つの文字(塩基)の並びでできています。このうち「C(シトシン)」と、そのすぐ後に「G(グアニン)」が並んでいる場所を「CpG部位」 と呼びます。CpG部位の「C(シトシン)」に、化学的な“しるし”=メチル基が付くことを DNAメチル化 といいます。
このメチル化によって、その遺伝子を「使う」か「休ませる」かが調整されます。つまり、CpG部位は「遺伝子の使い方をコントロールする大事な場所」であり、子どもの発達や加齢、喫煙、生活習慣病をはじめとした様々な病気のリスクにも影響を与えることがわかってきています。
(注2)「メチル化リスクスコア(MRS)」とは、研究の結果、調べた対象の疾患等との関連性を持つことが、大規模なデータの中から統計的に示された、複数のDNAメチル化変化の係数を求め、それを組み合わせたモデルを構築し、それを外部データに当てはめた場合、その疾患の有無を一定の精度で判別することを目的とした指標です。この研究で構築したMRSを調べることで、マルトリを早期に予期し、予防につながる新しい指標です。独立した外部データでも検証されており、一定の精度でマルトリの有無を判別できたことが確認されています。将来的に支援のタイミング把握や福祉・医療現場での活用が期待されます。
(注3)「DNAメチル化」とは、DNAに付く「化学的な印」で、遺伝子のオン・オフを調整する仕組みです。体や心の健康、そしてがんや生活習慣病をはじめ、様々な病気のリスクにまで影響するため、近年とても注目されています。
(注4)「エピゲノム」とは、エピ=後天的、ゲノム=遺伝子とが組み合わさった用語で、遺伝子の使い方を決める「調整役」です。ゲノムが「生まれ持って変わらない、静的な遺伝子」に対して、エピゲノムは環境や生活習慣が影響を与え、「生涯を通じ変わり続ける、動的な遺伝子」で、遺伝子の働き方の橋渡しをする重要な仕組みです。
(注5)「FOXP1(フォックスピー・ワン)遺伝子」は、脳や心の発達にとても大切な役割を持つ遺伝子の一つです。特に、言葉の発達、学習、感情のコントロール、自閉スペクトラム症に関わることがわかっています。つまり、FOXP1遺伝子は、子どもの脳が「考える・話す・人と関わる」力を育てるための大事なスイッチのような存在です。
(注6)「眼窩前頭皮質(がんかぜんとうひしつ)」は、脳の前のほうにある部分です。感情や欲求を調整して、「その場にふさわしい行動を選ぶ」ことに関わります。簡単にいうと、心のブレーキ役や、人付き合いのバランスをとる司令塔のような場所です。「帯状回(たいじょうかい)」は、脳の真ん中あたりに帯のように広がっている部分です。気持ちの切り替えや集中力、痛みやストレスの感じ方に深く関わっていて、簡単にいうと、感情と注意力をつなぎ、心と体を調整するハブのような場所です。つまり、両方とも子どもが 感情や行動を上手にコントロールする力に深く関わっています。
(注7)「灰白質(かいはくしつ)」は、脳の外側部分に多く存在する神経細胞の本体が集まった領域です。
(注8)「紡錘状回(ぼうすいじょうかい)」は、後頭葉から側頭葉にかけてある脳の一部で、「見たものを理解する」ためにとても大事な働きをしています。紡錘状回は、カメラで撮った「画像データ」を、人が理解できる「顔」「文字」「もの」に変えてくれる脳のしくみです。子どもの学習や社会生活にとても大切な場所なので、発達支援や学習サポートの観点からも注目されています。
(注9)「AUC(エーユーシー)」は Area Under the Curve(曲線下面積)の略です。医療や統計の分野でよく使われる指標で、特に 検査や診断の正確さ を表すときに用いられます。ある検査や予測方法がどれくらい正確かを数字で分かりやすく示す指標です。1.0に近いほど優秀で、0.5に近いと役に立たない検査ということになります。
〈論文タイトル〉
英語タイトル
Multi-epigenome-wide analyses and meta-analysis of child maltreatment in judicial autopsies and intervened children and adolescents.
(日本語タイトル:司法解剖例および支援介入を受けた子ども・思春期における小児マルトリートメントの包括的エピゲノム解析とメタ解析)
〈発表雑誌〉
本研究成果は、2025年9月16日に英国科学誌Nature系「Molecular Psychiatry(モレキュラー・サイキアトリー)」に掲載されました。
アブストラクトURL:https://www.nature.com/articles/s41380-025-03236-1
DOI番号:10.1038/s41380-025-03236-1
〈著者〉
Nishitani S, Fujisawa TX, Takiguchi S, Yao A, Murata K, Hiraoka D, Mizuno Y, Ochiai K, Kawata NYS, Makita K, Saito D, Mizushima S, Suzuki S, Kurata S, Ishiuchi N, Taniyama D, Nakao N, Namera A, Okazawa H, Nagao M, Tomoda A.
西谷 正太 福井大学先進部門子どものこころの発達研究センター 特命講師
藤澤 隆史 福井大学先進部門子どものこころの発達研究センター 准教授
滝口 慎一郎 福井大学医学部附属病院子どものこころ診療部 特命助教
矢尾 明子 福井大学先進部門子どものこころの発達研究センター 学術研究
村田 和大 広島大学大学院医系科学研究科法医学研究室 助教
平岡 大樹 福井大学先進部門子どものこころの発達研究センター 特命助教
水野 賀史 福井大学先進部門子どものこころの発達研究センター 准教授
落合 恵子 大阪大学大学院連合小児発達研究科 博士後期課程大学院生
Natasha Kawata 福井大学先進部門子どものこころの発達研究センター 特命助教
牧田 快 福井大学先進部門子どものこころの発達研究センター 特命助教
齋藤 大輔 福井大学先進部門子どものこころの発達研究センター 特命准教授
水島 栄 福井大学医学部附属病院子どものこころ診療部 特命職員
鈴木 静香 大阪大学大学院連合小児発達研究科 博士後期課程大学院生
倉田 佐和 福井大学先進部門子どものこころの発達研究センター 特命助教
石内 直樹 広島大学大学院医系科学研究科附属死因究明教育研究センター臨床法医学門 特任助教
谷山 大樹 広島大学大学院医系科学研究科分子病理学研究室 助教
中尾 直己 広島大学大学院医系科学研究科法医学研究室 博士課程大学院生(MD-PhDコース)
奈女良 昭 広島大学大学院医系科学研究科法医学研究室 教授
岡沢 秀彦 福井大学先進部門 高エネルギー医学研究センター 教授
長尾 正崇 広島大学大学院医系科学研究科法医学研究室 教授
友田 明美 福井大学先進部門子どものこころの発達研究センター 教授
Multi-epigenome-wide analyses and meta-analysis of child maltreatment in judicial autopsies and intervened children and adolescents, Molecular Psychiatry, 1-12, Sep 16 (2025).