「特集」スマホを媒介としたSNS利用がもたらす「身体性革命」

古谷経衡
作家・評論家
日本のX(旧ツイッター)利用者数は約7千万人(2024年末)。世界1位のアメリカ約1億人強に次ぐ2位の利用者数を誇る。ただし米国の人口が日本の約3倍であることを考えると、人口比では世界随一のX大国である。
これは日本人が匿名で書き込むのを好む、というよりは日本語が表意文字だからだ。短文の中に込められる情報量は英語やスペイン語より圧倒的に多い。ちなみにユーチューブは官民問わず各種統計上、SNS(交流サイト)の範疇(はんちゅう)に含まれ、こちらの利用者数は国内で約8千万人である。いずれにせよ日本は世界有数のSNS大国なのである。
このSNSが政治を動かした。とりわけ24年11月の兵庫県知事選挙では、斎藤元彦知事がデマや風聞を含むSNSの力もあって、再選を果たした。SNSに対置されるテレビ・新聞・ラジオ・雑誌関係者などはバットで殴られたような衝撃を受けた。
もはや、政治や社会の趨勢(すうせい)は、オールドメディアではなく、SNSが動かすのではないか。オールドメディアはSNSに敗北したのか。参院選が目前に迫る現在に至るまで、SNSと政治・社会の関係性は、何が正しいのかの答えが見えないまま、各界を揺るがし続けている。
「不便」をすべて解決
私たちが持つこの小さな家電〝スマートフォン〟が日本で爆発的な普及を見せたのは、ほんの10年余である。15年前の2010年におけるスマホ普及率はわずか9・7%に過ぎなかったのが、13年には60%を超えた。24年末現在のそれは90%を優に上回っている(総務省調べ)。これほど短期間に爆発的な普及を見せた消費財は、戦後史を眺めれば電気冷蔵庫、電気洗濯機、カラーテレビなどが該当する。高度成長期に起こった、家電による日本人の生活革命と同じ程度の激変が、ここ10年余で再現されたことになる。
スマホは、私たちの身体性を変革した。身体性とは、読んで字のごとく体で感じる総合的な感覚である。およそゼロ年代前半まで、PC(パソコン)からインターネットに接続するには、ネットワークに関する最低限度の知識を必要とした。ノートPCは薄型、軽量が志向されてきたが、「寝転んで」とか「風呂に入りながら」とか「トイレの中で」利用することは原則できなかった。バッテリーの問題もあり、移動中の連続使用にも限界があった。
スマホはそういったPCにまつわる「不便」をすべて解決したのは言うまでもない。よって新たな身体性として登場したのが、(操作者の)姿勢、場所、電源位置を顧みない、スマホによる快適な高速ネット接続環境であった。
これに最も影響を受けたのが、特にミドル、シニアなどの中・高齢者層であった。寝ながら、座りながら動画などを見ることができるという身体性は、デスクに座ってPCを操作する、という不自由からの解放を意味する。身体機能が衰えがちなこうした世代は、男女問わずスマホの常時利用にのめりこんでいく。
私は、長年政治的に極端な、場合によっては排外主義につながるような言説を熱心に述べる人々や、陰謀論を「真実」だと憚(はばか)らず開陳する多くの人々と出会ってきた。彼らの情報源のほとんどすべてがSNSであり、具体的にはユーチューブの動画情報である(ただし、Xの表示に埋め込まれた動画情報を含む)。そしてその多くがスマホからのアクセスであった。
「自らの選択」に信頼と愛着
このような人々の多くは、若くても30〜40代で、そのボリュームゾーンは50~60代、もしくはそれ以上のミドル・シニア層である。加えて所得的には中産階級かそれ以上に位置している場合が多く、目の前に生活の困窮がある訳ではなかった。
故にと言うべきか、彼らはリビングに大きな液晶テレビを置き、新聞を購読している場合も少なくはない。つまりオールドメディアと呼ばれる媒体に物理的に接触して「いない」から、スマホを操作し、そこで展開されるSNSの情報を信じるしかなかった―、という訳ではないのである。
彼らは口々に言う。「テレビや新聞は嘘ばかり。ネットにこそ真実が書かれている」。彼らは決して、家電としてのテレビを捨てたり、慣習としての新聞購読をやめていたわけではなかった。
日本人に限ったことではないが、人間が情報を「信用に足る」と感じるときのパターンは決まっている。自らが決定し、選択した情報や商品(あるいは店舗や会社)こそを「良いもの」と思う。他者に押し付けられる「良いもの」を人は疑いの目で見る。これは人間が遺伝子のレベルで持つ身体性の一種かもしれない。
古今東西を問わず、訪問販売の成功率は極めて低い。頼みもしないのに家にやってきたセールスマンから、言葉巧みに商品を勧められても、多くの人は猜疑心(さいぎしん)を持つ。しかし自分で足を運んだ結果、たまたま「発見」した商品は、「自らが進んで選択した」という前提があるので、熱心なリピーターになったりすることは、日常生活の中で山のようにある。
例えば「隠れた名店」を見つけることに多くの人々が喜びを感じるのは、その過程に自らの選択が正しかった、というニュアンスが含まれているからだ。
このように、他人から受動的に勧誘されるよりも、自らが主体的に「選択」した末に買ったり、利用したりする商品に、人間は信頼と愛着を持つのである。情報もまったく同じなのだ。
これをオールドメディアとSNSの関係に置き換えてみよう。日本において基本的にテレビは無料である(もちろんNHK受信料はあるが)。新聞はというと、契約時には本人の意思が介在する(それすらも新聞の拡張員のやり方によっては半ば疑わしい場合もある)が、それ以降は自動的に毎朝配達される日本特有の宅配システムを採っている。多くの人々にとって、テレビや新聞などが発する情報は、「自分が進んで選択したもの」とは考えられないくらい、生活の中のインフラとして定着した。
インターネットはどうだろうか。最近のPCやスマホには、最初から有名アプリがインストールされている場合が多いが、テレビや新聞のように、自動的に情報が決まった時間に流れてくることは原則的にない。ネットから情報を得ようと思えば、必ず「検索」という手順を踏まなければならない。この「検索」という手順が、身体性に直結している。
「検索」は自らが文字を入力する都合上、その結果表示される情報は「自分が発見したもの」に等しい。だからこそ、人々は自分が進んで発見したその情報を「自らの選択」と考え、信頼と愛着を持つ。
テレビや新聞はそうではない。新聞記事は自らが選択したものではない。記者が取材しデスクが決定した上で構成され、印刷されて勝手に配達されてくるものだ。テレビのニュース番組は、これまた製作陣が番組を構成してコメンテーターを手配した上で、決まった時間に勝手に流れてくるものであり、自分が選択した情報ではない。この身体性が、オールドメディアよりもSNSを「真実」と思う人の多くを突き動かしている。
「年を取ると何故早起きになるのか」という問いはままある。理由は加齢によるホルモンバランスの変化である。私の死んだ祖母も、早起きどころか午前3時半には起床して、夜の7時には寝ていた。ここにスマホが加わるとどうなるのだろうか。
午前3時半にテレビをつけても、まずニュース番組は流れていない。朝刊の配達には早すぎる。そこでスマホが登場する。昨日閲覧した検索結果から、AI(人工知能)のアルゴリズム(計算手法)表示により「検索」行為は誘導され、さも「自分が選択」したかのように偽装されるのだが、多くの人はそのカラクリに無知なので、ますます先鋭的な情報ばかりが、時間に関係なく「発見」される。その連鎖が延々と続いていく。
航空機とマウンテンバイク
かつてテレビはお茶の間の華であった。基本的にテレビ番組は家族が揃(そろ)って視聴するものだった。しかしスマホは1対1の家電なので、テレビのように同時に同じ情報を入手し、それに対して賛否を言い合う相手が存在しない。新聞も1家族1紙が原則だから、回し読みをする慣習がある。スマホにはそういう「閲覧の連帯者」がない。だからいくらその情報がうさんくさくても、それを掣肘(せいちゅう)する人間は家族にすらも、もはやいないのである。
これこそ、とりわけスマホを媒介としたSNS利用がもたらした「身体性革命」の実相なのである。
オールドメディアの住人たちは、本稿冒頭での政治的衝撃により、どうにかして一部の人々の人心がSNSに流れるのを食い止めようとしている。テレビや新聞がもっと精密にファクトチェックをするとか、オールドメディア自身がSNSの活用を抜本的に見直すとか、おおよそそのような工夫である。
しかし残念ながらその取り組みの多くは徒労に終わるだろう。なぜならオールドメディアとSNSは、前述のとおり、身体性がまったく異なる媒体だからである。同じ乗り物であることには違いないが、航空機とマウンテンバイクの性能を比較しても無意味なのと同じである。
よっていくらテレビがSNSでの周知活動で逆襲を図ろうとしても、人々の多くは単に「テレビの別動隊」とみなして警戒するだろう。私たちの多くが、手を変え品を変えやってくる訪問販売員や押し売りを警戒するのと原理はまったく同じである。
揺り戻しが来るまで耐える
唯一の打開策があるとすれば、テレビや新聞などがその身分を隠して、SNSにアカウントを作り、その影響力をSNSの中「だけ」で拡大させることだ。しかし、オールドメディアという大組織が、それを実行することは企業倫理の観点から言ってほぼ不可能である。
主にスマホを間口としたSNSが、悪い意味で政治や社会に影響を与えることを座して見ていてよいのか、という正義感はもっともだ。幸いにしてというか、SNSの発信者は、オールドメディアに比べてはるかにその組織力は零細であり、資金力は微弱である。加えてSNSはテレビ番組とは比較にならないほど栄枯盛衰が激しい。有名発信者は、1年もたたずして過去の人になる。しかしテレビ局や新聞社や通信社などは、1年では崩壊しない。座していれば相手が勝手に自滅するパターンは少なくないのだ。
オールドメディアはまずSNSの行方を見守り、SNSの悪い面が行き過ぎて揺り戻しが来るまでじっと耐える、という選択肢もあると思う。いずれにしても、SNSをオールドメディアと同じ土俵で語ってはならず、スマホをテレビと対置させてはならないという前提の事実だけは理解するべきだ。臥薪嘗胆(がしんしょうたん)という言葉は、今こそ含蓄を持つのではないか。
作家・評論家 古谷 経衡(ふるや・つねひら) 1982年札幌市生まれ。一般社団法人令和政治社会問題研究所所長。主な著書に「シニア右翼」(中央公論新社)、長編小説「愛国商売」(小学館)、「意識高い系の研究」(文藝春秋)、「ヒトラーはなぜ猫が嫌いだったか」(コアマガジン)など多数。
(Kyodo Weekly 2025年6月23日号より転載)
