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「悪代官」と呼ばれた男 最長在職日数迎える大島衆院議長

 12月12日、大島理森衆院議長の在職日数が2030日となり、帝国議会を含め、歴代最長となる。こわもての表情を見せたことから、自民党国対委員長時代は「悪代官」の異名をとったが、この5年は名議長として与野党から信頼と敬意を得ている。天皇退位特例法も「大島議長でなければ与野党はまとまらなかった」(自民国対関係者)という。もともと調整役の政治家であることに加え、議運・国対族として国会運営の裏の裏まで知り尽くし、野党にも太いパイプがあるため、うってつけの議長であることは誰もが認める。だが、だからこそ議長の集大成として、政治家の集大成として、まだまだ大島氏に期待する声も。

 

国会の申し子

 

 内閣総理大臣に比べ、衆院議長の認知度は低い。ここ3代の議長のフルネームをすぐに言うことができれば、かなりの政治通である。しかし、国権の最高機関の長である議長の地位は実に高く、国会法で定められた権限も極めて強い。退任後は実質的な最高位の勲章=桐花大綬章も授けられる。

 だが、その衆院議長の決め方・決まり方は見えにくい。最終的には院で選出されるが、総裁選のように事前に党内で選挙が行われるわけではない。時の首相と与党執行部が当選回数や経歴、派閥などを加味して調整し、候補者が絞られる。たとえ内定しても、何らかの政治力学が働き、別の議員に差し替えられたこともある。

 議長は「上がりポスト」のイメージが強く、他薦されても敬遠されることもある。たとえば1980年代の中曽根康弘政権時代、二階堂進副総裁(当時)の総裁選出馬の芽を摘むため、衆院議長に祭り上げようとする動きが起こった。だが、二階堂氏は政局から遠ざけられることを嫌い、これをかたくなに拒んだ。

 実際、衆院議長を務めた者が首相になった例はない。田中角栄首相(当時)の後継に前尾繁三郎議長(当時)が浮上したり、竹下登首相(当時)の退陣表明を受け、議長経験者の坂田道太氏の名前が取り沙汰されたりしたが、「議長を務めた者が首相になっては、国会の地位をおとしめる」として一蹴された。

 国権の最高機関の長に就くことは間違いなく名誉なことであるし、首相になれない多くの議員にとっては「垂ぜんの銀メダルのようなもの」(閣僚経験者)である。そのため、古参議員の中には自分を党執行部に売り込んだり、所属派閥の領袖(りょうしゅう)に“援護射撃”を頼んだりする者もいる。また、議長ポストが首相に恣意(しい)的に使われることも珍しくない。

 現行憲法下の衆院では、34人の議長が誕生している。自ら望んで議長席に座った者もいれば、人に背中を押された者もいる。だが、現在の大島議長はやや異なる。「本来、人がポストに近づいていくが、大島さんの場合、議長ポストのほうから近づいてきた。まさに国会の申し子だ」(全国紙デスク)との表現はわかりやすい。

 歴代議長の多くは、論功行賞や派閥力学などによって生まれた。就任するまで国会運営にほとんど関わったことがない議長もいた。その点、大島議長は「久しぶりの議長らしい議長、なるべくしてなった議長」(野党国対関係者)だという。与野党からの信頼の厚さが、最長の議長在職日数をもたらすといってもよい。

 

縁の下の力持ち

 

 衆院議員は大きく三つのタイプにわかれる。さまざまな政策に取り組むタイプ、地元や支援団体の活動に力点を置くタイプ、そして大なり小なり国会運営に多くの時間を費やすタイプである。特定の政策に精通すれば、いわゆる族議員にもなれるし、入閣時などには「政策通」として紹介される。

 だが、委員長になればともかくも、国会運営を円滑に進めるための議院運営委員会(議運)や国会対策委員会(国対)での活動は、あまり目立たない。多くの場合、陣笠議員は修行を兼ね、国対で“雑巾がけ”をさせられるが、当選回数を重ねるうちに離れていき、政策通を目指す者は少なくない。

 議運や国対は与野党交渉を担うため、向き不向きもある。だが、敬遠される大きな理由として、自民党のベテラン議員の一人は「議運・国対はいわば縁の下の力持ち。注目を集めるのは国会がもめたときで、普段は空気のような存在。そうした地味な役回りは好まれないのだろう」とため息をつく。

 開会中、月曜から金曜までめいっぱい国会に拘束されることも、敬遠される理由である。さらに国対は「体育会的なところもある」(前出・自民国対関係者)という。国会の中枢で法案の生殺与奪に関われるとはいえ、中堅・若手議員にとって議運・国対は「3K」にも似た過酷な“職場”なのかもしれない。

 もっとも、中には国会運営で汗をかくことに生きがいを見いだす議員もいる。初当選のときから大島議長はまさにそうした議員であった。3回目の当選を目指した1990(平成2)年の衆院選では、当時の中選挙区で最下位当選に甘んじたため、支持者からは「他の議員はしょっちゅう地元に帰っているのに、大島さんは国会の仕事ばかりだ」との批判を浴びた。

 しかし、だからこそ、大島氏は長きにわたって議院運営委員長や国対委員長を任された。公明党の漆原良夫国対委員長(当時)と険しい顔つきで国会内を歩くことから「悪代官」「越後屋」などと称されることもあった。大島氏は環境庁長官や文部相、農林水産相も歴任したが、足跡の深さでいえば、議運・国対の比ではない。

 大島氏が足して2で割ったり、調整しながら合意を形成したりすることに得手だったこともあるだろう。だが、若かりし頃、竹下登元首相に「1本の法案を通すだけでも大変なこと。目立たずとも、黙々と汗をかいて仕事をしていれば、誰かが必ず見ていて評価してくれる」と言われたことも大きな励ましになったのではないか。

 

奴雁になり得るか

 

 かつて自民党には、首相や衆参両院議長の経験者などから成る最高顧問会議があった。正式な意思決定機関ではなかったものの、「いわば舅(しゅうと)、小舅の集まりのようなもの」(元自民党職員)で、時の首相に大所高所から直言・諫言(かんげん)した。下手をすれば足を引っ張られて政局になるため、首相は平身低頭で長老たちの意見に耳を傾けた。

 だが、1993年に自民党が下野して間もなく、最高顧問会議は姿を消した。のみならず、とりわけ小泉純一郎政権以降、派閥の影響力はめっきり弱まり、また、首相に再考を促す国士も見当たらなくなった。安倍晋三政権時代、いわゆる忖度(そんたく)政治が問題になったが、いつの間にか永田町には首相官邸の意向に逆らえない“空気”のようなものができあがった。

 雁(がん)の群れが餌を啄(ついば)むとき、不意に外敵に襲われないよう周囲に注意を払う1羽を「奴雁(どがん)」という。人間社会でいえば、さしずめ世の中の動きに警鐘を鳴らす役割である。そしてかつての政界には、後藤田正晴氏や伊東正義氏のように、私利私欲ではなく、国や党のため、臆することなく時の権力者に堂々とものを申す国士がいた。

 総理総裁を目指している者が政権批判を展開すると、衣の下の鎧(よろい)が見えてしまうことが多い。中堅・若手議員が威勢よく執行部に何かを要求しても、「一過性の青年の主張」として聞き流されてしまう。逆に議長や党副総裁、幹事長を経験した者でも、バッジを外してしまうと「過去の人」になり、発言に重みが加わらない。

 短命政権が続いた時代には、バッジをつけた元首相や元議長は多くいたが、現在の自民党には4人だけである。首相や議長は本来、最終ポストであり、「次」を考える必要はないはずである。行き過ぎた官邸主導に「待った」をかけるのは、まさにそうした位人臣(くらいじんしん)を極めた議員たちでなければならず、それはまた、ノブレス・オブリージュ(高位な者の責務)にほかならない。

 衆議院の任期満了まで10カ月となった。すでに大島議長は3年前に再選されており、よほどのことがない限り、3選はあり得ない。政府への苦言などにより、これまで大島氏が議長としての権威を示したことで、国会そのものが威厳を取り戻しつつあることは確かである。だが、そうした大島議長だからこそ、「最後に国会改革に道筋をつけてほしい」(自民若手議員)との願いがある。

 一方、現在、大島議長は慣例により、会派を離脱しているが、議長職が終われば、いずれ自民党に復帰する。当選回数も政治経験も豊富な前衆院議長が党に戻れば、一目も二目も置かれる存在となる。その大島氏には「議長を降りたら、水戸黄門のような役割を期待したい」(元衆院議員)との声がある。それはとりもなおさず「奴雁」としての役割であり、憲政史の記録だけではなく、人々の記憶にも名を残すことになる。

[筆者]

政治行政アナリスト・金城大学客員教授

本田 雅俊(ほんだ・まさとし)

 

(KyodoWeekly12月7日号から転載)

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