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「平成流」象徴天皇制を問う メディアに描かれた姿から

 新しい元号「令和」が公布され、「平成」がまもなく終わりを迎える。平成30年間の明仁天皇の歩みは「昭和」とは一線を画す、「平成流」象徴天皇制として多くの国民の支持を得ている。マスメディアが描く皇室像の変化を通じ、象徴天皇制の変容過程を研究する、歴史家の河西秀哉氏が「平成流」を分析した。(編集部)

 

 1989年1月7日、皇太子明仁親王は天皇に即位、翌日から平成が始まった。そして2019年4月30日、明仁天皇は退位し、翌日に皇太子徳仁親王が天皇に即位、令和元年となる。

 この間の象徴天皇制を、マスメディアにおいても学術的にも、特に「平成流」と評価することが多い。なぜなのか。

 明仁天皇は朝見の儀において、「国民とともに」という文言の入った「おことば」を「です・ます調」で発表した。国民とともに歩むことが、平成の当初から掲げられ、天皇制が変わったという印象を与えていく。こうした姿勢は、「開かれた皇室」と言われ、マスメディアでは大きく取りあげられた。明仁天皇の即位後の言動は、新しい皇室像として好感を持って捉えられ、国民の支持を得ていった。

 これは、明仁親王が長く皇太子の座にいたことに一つの要因がある。その時期に自身の存在や在り方、公務について模索をし、象徴とは何か、天皇とは何かを考えていた。

 昭和の後半、国民は象徴天皇制への興味を失っていた。国民の関心は政治から経済へと移り、自らの生活により近い問題に目を向けていた。戦後日本には企業を中心とした社会が形成され、天皇制への関心も後景に退いていた。そこに危機感を有していたのが明仁皇太子であった。このままでは象徴天皇制の存続すらも危うい。象徴としての模索は、天皇制の生存をかけてなされた戦略であった。

 明仁皇太子はその模索の中で過去の天皇の事績についても学び「天皇は政治を動かす立場になく、伝統的に国民と苦楽をともにするという精神的立場に立っています」と考えていく(『読売新聞』1986年5月26日)。

 歴代天皇の姿を具体的に参照しつつ、それこそが象徴という立場に一致していると見ていた。こうした考え方が、天皇に即位した時の言葉となって結実する。皇太子時代より模索したことが、天皇となった時に国民との関係性として言及された。

 そして、こうした「苦楽をともにする」代表的な行動が、被災者への見舞いだろう。1991年7月、長崎県雲仙・普賢岳噴火時、天皇と皇后は膝をつき、被災者一人一人に目線を合わせ、声をかけた。

 こうした被災地への見舞いは、「開かれた皇室」路線の一環と認識されていく。その姿は大々的に報道された。その後も平成に入ってからの日本は多くの自然災害に直面しており、被災者への見舞いは天皇制がそれまでとは異なり、新しくなったことを示す取り組みとなった。

 

「再統合」

 

 とはいえ、こうした天皇と皇后の姿勢には批判も存在した。それが顕在化したのが、美智子皇后バッシングである。しかしそれも、皇后が異例の反論を発表、倒れて失声症となったことで、世間の風はすぐに変化した。

 1995年1月、天皇と皇后は阪神・淡路大震災に際して兵庫県を訪問して被災者を見舞い、ボランティアを激励した。地下鉄サリン事件など多くの世情不安な出来事が頻発する時期でもあり、そうした見舞いは被災者への癒やしとして求められていった。以前の批判を跳ね返すかのように、天皇と皇后は彼らの声に積極的に応えていく。

 高度経済成長が終わって、国民全体が右肩上がりの経済に乗りかかる態勢から、平成は格差が進行し、分断社会となった。そうした状況の中で、天皇と皇后の被災地訪問は、国民それぞれに被災地や被災者を思い起こさせ、日本国民としての一体性を意識させた。その意味で、近年、天皇と皇后は国民を「再統合」する役割をより果たしていたように思われる。

 天皇と皇后はまた、戦争の記憶に触れ、慰霊の旅を続けていく。

 即位当初より「皇室外交」を積極的に行い、「おことば」では、昭和天皇以上にアジア・太平洋戦争に関する記憶に触れてきた。そして、戦後60年の2005年には戦争の激戦地であったサイパン島を訪問する。

 天皇と皇后の外国訪問はその国からの招請という形で行われるのが通例であり、この訪問は天皇の意思によって行われた、極めて異例のものであった。

 戦後70年目の15年には、同じく激戦地のパラオを訪問している。この年の戦没者追悼式での「おことば」では「ここに過去を顧み、さきの大戦に対する深い反省と共に、今後、戦争の惨禍が再び繰り返されぬことを切に願い」と、「さきの大戦に対する深い反省」が述べられた。

 

首相と対比的

 

 こうした姿勢は、戦争に関する記憶を曖昧化しようとする安倍晋三首相の姿勢と対比的に捉えられている。

 そのためか、マスメディアは次第に、戦争の記憶への取り組みと国民との距離の近さを、平成の象徴天皇制を特徴づける二つの柱として論じていくようになる。

 世界各地ではさまざまな紛争やテロが頻発し、日本においても戦争経験世代の急激な減少とともに戦争の記憶が風化する問題は指摘されてきた。そのような中で、戦争の記憶に触れることを継続的に取り組む天皇と皇后に、マスメディアはより焦点を当てるようになった。

 近年、戦争の記憶への取り組みと国民との距離の近さの二つの柱を「平成流」と呼ぶことが多い。

 それは、国民からも支持を得ている。日本世論調査会が18年12月に実施した全国世論調査によれば、現在の天皇のこれまでの活動で評価するものを二つまで答えてもらったところ「被災地見舞い」(70%)が最多で、「国際親善」(37%)、「戦没者慰霊」(29%)などが続いた(『京都新聞』19年1月7日)。

 天皇のさまざまな公務のうち、明仁天皇が熱心に取り組む活動に対して国民も支持しており、「平成流」は評価されているのである。

 しかし、こうした「平成流」は、政治の不作為を埋めてしまう作用がある。被災地において本来は政治が解決しなければいけないさまざまな問題を、天皇の訪問によって解消したかのように見え、不満が顕在化するのを抑えてしまっている。

 

天皇に期待し満足

 

 戦争の問題も、いわゆるリベラルと呼ばれる人々も含めて、本来は自分たちが詳細に問題の意味を語らなければならないにもかかわらず、天皇に期待することで満足してしまっている状況も存在している。そうした意味からも、明仁天皇は国民から広く支持されているのが現状である。

 おそらく、この状況は退位後の新しい天皇になっても続くのではないか。皇太子としての最後の誕生日の記者会見(19年2月21日)で徳仁親王は、「引き続き自己研鑽(けんさん)に努めながら、過去の天皇のなさりようを心にとどめ、国民を思い、国民のために祈るとともに、両陛下がなさっておられるように、国民に常に寄り添い、人々と共に喜び、あるいは共に悲しみながら、象徴としての務めを果たしてまいりたいと思います」と宣言し、「平成流」を継続していく姿勢を示した。国民の大きな支持を受けている現状を見れば、たしかに路線の継承という方向性はあり得るだろう。

 ただし、それだけでもない。皇太子は「その時代時代で新しい風が吹くように、皇室の在り方もその時代時代によって変わってくるものと思います」と述べ、自らがこれまで携わってきた水問題に言及し、自身のカラーを出そうとしている。

 また、雅子妃についても「このグローバル化の時代にあって、国際的な取り組みなど本人だからできるような取り組みというのが、今後出てくると思います」と強調し、今後は彼女らしさを出すような活動をしていくことを示唆している。

 このように、新しい時代の天皇と皇后像を出そうとしている。どうなるか注目したい。

 

[筆者略歴]

名古屋大大学院准教授

河西 秀哉(かわにし・ひでや)

1977年生まれ、愛知県出身。神戸女学院大准教授を経て2018年に現職。著書に「『象徴天皇』の戦後史」「明仁天皇と戦後日本」「皇居の近現代史」

 

(KyodoWeekly4月22日号から転載) 

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