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集団で学童疎開 戦火を避け地方へ

  • 青空教室で勉強する戦時下の学童たち=1945(昭和20)年6月
  • 1940(昭和15)年11月15日、神社にお参りをして子供の成長を祝う七五三の日。男の子は3歳と5歳、女の子は3歳と7歳で、昔は数え年。東京市内で晴れ着の代わりに身を包むのは国民服ともんぺの戦時服。時勢は泥沼化した日中戦争下で、太平洋戦争に突入する真珠湾攻撃の約1年前。
  • 1941(昭和16)年12月8日、米ハワイ真珠湾攻撃により太平洋戦争が始まったことを発表する大本営陸軍報道部長。「臨時ニュースを申し上げます。帝国陸海軍は今8日未明、西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり」とラジオが伝えた。37年の日中戦争から8年の間、苦難と犠牲を国民に強いることになった。
  • 1942(昭和17)年1月28日、太平洋戦争も始まって間もないころ、かっぽう着姿で銃を担いで行われた軍事教練。国家総動員体制がとられ、国民生活の全てが戦時一色に。学校でも地域でも派遣将校や国防婦人会などを中心に「銃後の守り」が強要され、竹やり戦闘訓練やバケツリレーの防火演習が盛んに行われた。
  • 1941(昭和16)年10月20日、防火衣に身を包んだもんぺ姿の女性たちは東京・高田老松町(現在の文京区目白台)での防空演習。敵機来襲、焼夷(しょうい)弾投下を想定した訓練は太平洋戦争が始まる一月半前。空襲警報が鳴り響き、消火にバケツリレーが走る。隣組が担架でけが人を運んだ。
  • 1944(昭和19)年6月17日、疎開先の福島県・岳温泉に出発するのは東京都牛込(新宿)区の鶴巻国民学校の児童。太平洋戦争中に米B29爆撃機による戦火を避けるため、都会の子は父母から引き離され、縁故疎開や集団学童疎開で地方へ。ひもじさと親恋しさから布団の中で泣く子が多かったという。
  • 1944(昭和19)年6月8日、戦争の拡大で労働力が極端に不足し始めた太平洋戦争末期、「女子挺身隊」の若い女性が勤労奉仕で工場などへ大量動員された。米爆撃機B29による爆撃の標的とされる航空機製造の軍需工場などへも駆り出された。戦闘帽をかぶって旋盤機械を操作する表情にはかなりの幼さが残る。
  • 米軍機の爆撃で廃墟と化した横浜の市街を歩く地元女性=1945年9月(ACME=共同)
  • 1945(昭和20)年8月6日午前8時15分、米軍爆撃機が広島に原子爆弾を投下。人類史上初めて核兵器が使われた。市中心部を襲った爆発の熱線と放射線、爆風によって年末までに約14万人が死亡したとされる。米国は3日後、長崎にも原爆を投下し、太平洋戦争で日本は降伏に追い込まれた。
  • 1945(昭和20)年8月15日、終戦を告げる昭和天皇の「玉音放送」によって、国民は初めて太平洋戦争に敗れたことを知った。正午からの放送に、家族でラジオの前に正座。雑音だらけでも初めて聞く天皇の声に耳を傾けた。焼け跡の一角で、左手前は「御真影」だろうか。この日を境に戦後の日本がスタートする。
  • ミズーリ号に到着した重光葵全権以下の日本代表団、岡崎勝男終戦連絡中央事務局長、梅津美治郎参謀総長=1945年9月2日
  • 極東国際軍事裁判の法廷に座るA級戦犯。前列左から東条英機・元首相(死刑)、岡敬純・元海軍省軍務局長(終身刑)、梅津美治郎・元関東軍総司令官(終身刑)、荒木貞夫・元陸軍大臣(終身刑)、武藤章・元近衛第2師団長(死刑)、後列左から平沼騏一郎・元首相(終身刑)、東郷茂徳・元外相(禁固20年)、重光葵・元外相(禁固7年)=1946年5月21日(ACME=共同)
  • 懐かしの故国に一歩を印す帰国者=昭和33年1月27日、舞鶴港
  • 1951(昭和26)年9月8日午前、講和条約に調印する吉田茂首席全権と、署名を見守る(奥から手前に)一万田尚登、徳川宗敬(頭頂部のみ)、星島二郎、苫米地義三、池田勇人の各全権=サンフランシスコのオペラハウス
  • 1951(昭和26)年9月8日、米サンフランシスコで対日講和条約の調印が行われ、太平洋戦争以来の戦争状態に終止符を打った。独立回復を祝い東京・銀座通りなど、各地に日の丸が掲げられた。全権の吉田茂首相は駐留米軍への基地提供を認める日米安保条約にも調印した。両条約とも翌年4月に発効。
  • 1941年12月7日の日本海軍航空隊のハワイ真珠湾攻撃で、炎上して沈む米戦艦ウェストバージニア(ロイター=共同)
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