「コロナ後」社会と対人距離の変容

 シルベスター・スタローン主演の映画「デモリションマン」(1993年)の舞台は2032年。犯罪も暴力もない、無菌化されたクリーンルームのような管理社会だ。そこへ20世紀に冷凍刑に処された凶悪犯が脱走し、これを追うべく同時代の凄腕刑事が〝解凍〟されて送り込まれ、勝手の違う近未来に戸惑いつつ追い詰める活劇だ。

 同僚と握手を交わしたスタローンに「今では肌を触れ合うあいさつはないのよ」とたしなめる女性警官。事件解決後、彼女といいムードになってベッドインと思いきや、彼女の誘いはヘッドギアのようなものを装着して行うバーチャルな「それ」だった―。

 映画が皮肉たっぷりに描いてみせた世界を、もはや私たちは笑えない。新型コロナウイルス感染症が仮に終息したとしても、「新しい日常」とは、見えないウイルスとの終わりなき闘いの始まりであり、かつて経験したことのないレベルの潔癖さと衛生観が日常生活を律する起点になるからだ。

 愛情や友情の発露として抱き合う、仲間と肩を組む、口角泡を飛ばして議論する、若者が言う「壁ドン」にいたるまで、およそコミュニケーションとは生身の人間が互いの間合いをどう詰め、どう計るかという営みと不可分だ。そんな人との「距離感」の常識を、コロナ禍はすっかり塗り替えてしまうのか。濃密で熱い触れ合い自体、昭和ならぬ「平成の遺物」として令和の世に語り継がれるのだろうか。

 あるテレビ局が最近まとめたドラマの撮影ガイドラインを見て驚いた。顔合わせや読み合わせはなし、ラブシーンやアクションはなるべく避けるか、一発撮り勝負、メークと食事中は私語厳禁―など。現場の俳優やスタッフへの配慮はもちろん必要だが、作品の出来栄えがやや心配だ。

 映画製作や楽曲のレコーディング、舞台の稽古現場などでも似たような状況であろうことは想像に難くない。広く芸術活動、というより表現行為それ自体が大きな制約を受けるとすれば、コロナによる興行機会の消滅という経済面だけでなく、自由な創作活動が被る文化的損失は計り知れない。

 気づけば私たちは日々、着席禁止の「×」印や、間隔を空けよという床のテープ張りなどに囲まれて、「新しい日常」が強いる距離の取り方に慣れ始めている。すいた電車では座席を一つずつ空けて座る暗黙の了解をなんとなく心地よく思い、職場ではオンライン会議でマスク越し、カメラ越しに表情の読み取れない相手と話し合う。

 精神科医で作家の岡田尊司氏は著書「対人距離がわからない」(ちくま新書)の中で、人の成功や幸福とはその人の能力や適性よりも、人との距離の取り方、人間関係をどうとり結ぶかというスキルによる部分が大きいと指摘している。しかも、そのスキルは個々人のパーソナリティーが作用するという検証データを紹介していて興味深い。

 ところが、ポスト・コロナ社会が従来の「対人距離」の物差しを大きく狂わせるとしたら、また私たちのコミュニケーションを支える多様な選択を狭めたり縛ったりするとしたら、それはやがて現代の人間社会そのものを大きく変質させるのではないか。

(知的財産アナリスト 竹内 敏)

 

(KyodoWeekly6月8日号から転載)

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