「日本一の境地なり」

 「抑(そもそ)も大坂は、凡(およ)そ日本一の境地なり」。織田信長の一代記「信長公記」中の言葉である。信長は10年以上、現在の大阪・上町台地にあった石山本願寺を攻め続けた。「信長公記」には、大坂は奈良・堺・京都に近く、大小の河川が流れ、海外の船舶が出入りし、日本中から人が集まる豊かな港があるなど、商業都市としての優位性が描かれている。

 信長の遺志を継ぎ、この地に大坂城と城下町を築いたのが豊臣秀吉である。碁盤目状に道路を通し、縦横に川を掘り、商人や職人を集め、周辺から町人を移住させた。これが江戸時代、「天下の台所」と言われて繁栄した商業都市・大坂の土台となった。信長の見込み通り、大坂は日本で最も富を生み出す都市となった。

 明治維新前後の大阪は低迷するが、日本の近代化に伴って特に紡績業が発達し、商工都市として息を吹き返した。紡績業が大阪で発達した理由は、水運・陸運の利便性にあった。ここでも日本一の境地という大阪の本質が生かされた。

 商工都市として歩み始めた大阪に、一人の男が登場した。第7代大阪市長・関一(せき・はじめ)である。

 急激な工業化によって、大阪では工場や住宅が無秩序に建ち、工場のばい煙で「煙の都」と言われるほどになった。第6代市長・池上四郎は都市計画の学識者を市に招きたいと考え、東京高等商業学校(現一橋大学)教授であった関に白羽の矢を立てた。関は大阪市助役に迎えられ、1923年に市長となった。

 当時の大阪市は労働者の増加に加え、同年の関東大震災の被災者も流入し人口が急増、市は市域拡張を行い、25年、日本一の人口・面積を持つ「大大阪」が生まれた。大大阪を舞台に、関は「都市大改造計画」や数々の都市政策を打ち出していった。

 大改造の一つは御堂筋の拡幅である。大阪市の道路は秀吉時代の道路に手を加えた程度だったが、関の計画は、車社会の到来を予測して幅6メートルの御堂筋を一気に44メートルに広げ、下に地下鉄を通すという破格のものだった。「飛行場でもつくる気か」と言われ、用地買収も工事も困難を極めたが、関は計画を遂行した。

 大阪市から招聘(しょうへい)の話が来たとき、関は多方面から慰留されたという。何が関を大阪へ向かわせたのか。

 ある講演で関は述べている。大阪の商業は政府の保護干渉を受けておらず、大阪の空気は東京よりはるかに自由であり、経済上の活動力は大阪が勝る。この自由は、秀吉が基礎を築き、江戸時代に発達した「町人の都」から生まれたもので、この空気の中で「企業的精神」も発達した。この精神こそが日本の経済上の進展に寄与するのだ、と。

 信長・秀吉は日本が中世から近世へ向かう時に、関は日本が近代化の途上にある時に、大阪の本質を見抜き、大阪ひいては日本の国力を飛躍させた。次の時代へ進むカギは、いつも大阪の本質の中にあった。大阪の沈滞が言われて久しいが、現代の私たちは、先人が築いた大阪を継承しながら現代の目で大阪の本質を探り、「次の大阪」を構想すべきではないだろうか。その絶好の機会が2025年大阪・関西万博ではないか。そして前例通りなら、大阪の飛躍は日本の飛躍につながるはずである。(敬称略)

(アジア太平洋研究所 総括調査役 真鍋 綾)

 

(KyodoWeekly3月2日号から転載)

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