表現の自由を考える 「あいトレ」が映し出したもの

  10月14日、国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」(あいトレ)が閉幕した。これからの課題は山積みであるが、「全作品の展示再開」が実現した状態でフィナーレを迎えられたことに安堵(あんど)している。膨大なトラブルや抗議に対処しきった全スタッフのみなさまに、心からの感謝を捧げたい。そして、「表現の自由」について考えた。

 

 筆者は「芸術(≒ハイカルチャー)」を主戦場とする研究者ではない。専門はポピュラー音楽文化、つまりサブカルチャーを研究対象とする者だ。にもかかわらず筆を執ることになったのは、現代社会において「表現の自由」に基づく文化基盤を守ることの難しさを再認識したからだ。

 閉幕を迎えた今、「表現の不自由展・その後」のキュレーション(展示企画)が結果的に不十分であったことは、改めて検証されるべきであろう。本企画展は津田大介・芸術監督の個人企画といった色合いが強く、キュレーションも本職のキュレーターではなく「不自由展実行委員会」という別組織に委託する形で実施。だが、こうした特殊な組織構造は作品選定の遅れや、予算・展示スペースの不足などを招き、センシティブで難解なテーマにふさわしい展示準備を行うことができなかった。

 物議を醸した大浦信行氏の《遠近を抱えてpart2》は、もっともそのあおりを受けた作品といえる。かつて1968年に展示中止となり、図録焼却の憂き目にあった経緯を持つ本連作のコンテクストやメッセージは、あの狭い通路の小さい画面では到底伝え切れなかったはずだ。

 だが、仮にキュレーションが不十分であったとしても、「国際芸術祭における一企画展」としてのみ作品に触れていたとしたら、これほどまでの炎上にはつながり得なかっただろう。今回の騒動は、作品のイメージが断片的に切り抜かれ、文脈のいっさいを剥ぎ取られたまま、SNSという「広場」上へと晒し上げられることによって起こったものだからである。

 今回の騒動では、文脈を一切無視して切り抜かれたイメージが、SNS上において虚実ない混ぜのまま爆発的に拡散されることによって起こったものだ。

 社会学者の倉橋耕平氏はその主著の中で、いわゆるネット右翼が同質性の高いネット言論空間の中で「集合知」として偏った主張を自己強化していったことを述べているが、これは今回の炎上にも同じことがいえる。

 その顕著な例が、中垣克久氏による《時代(とき)の肖像―絶滅危惧種 idiot JAPONICA 円墳―》にまつわる言説だ。これは近年の日本における右傾化や対米従属を批判した作品であったが、円墳の上部に掛けられた日本国旗の寄せ書きが「特攻隊を愚弄(ぐろう)している」として批判の対象となった。ただ、これは実際には海軍兵学校在籍中に終戦を迎えた中垣氏の養父が書いたものであり、「特攻隊」とは何も関係のないものである。そもそも中垣氏は従兄弟の父親を戦艦大和の特攻作戦で亡くしており、特攻隊員にはむしろ極めて同情的な人物だ。

 しかし、虚偽の情報は、SNS上で増幅されることによって集合知的な「真実」として共有され、新たな攻撃材料となっていく。展示再開後は、アーティスト集団「Chim↑Pom」(チンポム)の《気合100連発》がまったく同じ構造で炎上させられていた。今回の騒動は、悪意をもってコンテクストやイメージを切断し、改変する者へ対処する難しさを改めて浮き彫りにするものとなった。

 9月26日に文化庁が決定した補助金約7800万円の全額不交付決定によって、この案件の緊迫感は一挙にピークを迎えた。翌27日には来年度分の芸術文化振興基金助成金交付要綱がひっそりと改訂され、「公益性(これ自体、きわめて恣意(しい)的な解釈が可能な語である)」次第によっては助成が取り消しになることを後追いで承認している。

 萩生田光一・文部科学相は今回取り消しとなった根拠について、「内容に問題はなく、手続きの瑕疵(かし)によるもの」だと述べているが、その決定は議事録すらも残っていない、極めて不透明な手続きに基づくものであり、官邸の意向を強く匂わせるものとなっている。

 仮に「手続きの瑕疵」を問題にするとしても、あいトレの総事業費約12億円のうち0・3%(420万円)、総展示面積の0・83%にすぎず、しかも最終的に展示再開となった「表現の不自由展・その後」は、後出し全額不交付の論拠としては弱すぎる。

 大村秀章・愛知県知事は司法の場で争う予定だが、こうした恣意的な文化庁の決定がまかり通れば、本来「国民による未来への文化投資」であるはずの公的助成は、萎縮と自主規制という「見えない検閲」によってそのエッジや創造性を大きく低下させていく。中長期的に見て、今回の決定は何ひとつ日本の文化発展にプラスをもたらさない。

 先ほど言及した「見えない検閲」は、筆者の研究するポピュラー音楽でも例外ではない。映像作家の森達也氏が2000年に著した「放送禁止歌」では、「竹田の子守唄」をはじめとする放送禁止歌の多くが、実際には抗議すら受けておらず、マスメディア内部の「ひょっとしたら抗議されるかもしれない」という恐れに基づいて排除されてきたことが明らかにされている。空気による「見えない検閲」の恐ろしさは、何よりもそれが不可視のままわれわれを縛り、創作物を闇に葬ることにある。

 かつて英国の哲学者J・S・ミルが、「自由論」の中で述べたように、「表現の自由」の重要性は「自分にとっては絶対に正しいと思われることでも、実際に正しい保証はどこにもない」という、自己の無謬性(むびゅうせい)を疑うことから始まっている。

 長い歴史の中で、どれほど多くの作品が社会倫理やイデオロギーの美名のもとで糾弾され破壊されてきたか、文化史に少しでも通ずる方であれば思い当たる事例があるのではないか。「気に食わないもの」をそれでもなお、社会全体で包摂していくこと、その重要性と有用性は、何度でも顧みられるべきだろう。

[筆者略歴]

加藤 賢(かとう けん)

1993年愛知県生まれ、早稲田大教育学部卒業後、大阪大学文学研究科音楽学研究室在学中、主にポピュラー音楽文化を研究

 

(KyodoWeekly10月28日号から転載)

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