「口福の源~食料」しょうゆの〝試練〟

 明治維新から150年。しょうゆに関して言えば、江戸時代にこいくちしょうゆが誕生して以降、連綿と日本の食文化の基本として今日に至っているようなイメージがあるのではないでしょうか。そこで、本稿ではしょうゆの近代史に光を当ててみようと思います。

 明治の到来は日本の食文化の上でも大きなターニングポイントとなりました。西洋化の流れが食の分野でもさまざまな変化をもたらしました。その中でしょうゆにとっては〝試練〟が訪れていたのです。日本が列強の仲間入りを果たすべく国力を増強させる中、明治4(1871)年には醤油(しょうゆ)税が導入されます。明治8年、いったんは廃止されますが、明治18年にはあらためて醤油税則が、日清戦争後には自家用醤油税法がそれぞれ制定され、しょうゆづくりは大きな変化の時代を迎えます。

 自家製造は衰退し、産業化が進みました。日露戦争後、生活必需品課税への反対により、醤油税関連法令はすべて廃止されますが、新たな問題がしょうゆ業界を襲います。第1次世界大戦前夜、世界経済が不安定さを増す中で、原料である大豆、小麦の供給がひっ迫してくるのです。大正2(1913)年には大蔵省醸造試験所で桜豆(脱脂大豆)によるしょうゆ醸造試験が始まります。

 しかし、代替原料によるしょうゆ醸造は簡単ではなかったらしく、第1次大戦終結後の大正15年に出版された「安価原料醤油醸造法」(木下浅吉著、明文堂刊)も桜豆(脱脂大豆)に多くのページを割き、実用化を鼓舞する内容になっています。「質疑応答番醤油製造法」(伊藤定治著、明文堂刊)など、番醤油、すなわちしょうゆを搾ったかすを食塩水と合わせて、再度仕込んで得られるしょうゆも推奨されました。

 当時、しょうゆの原料利用率は6割程度。残ったしょうゆかすを使う番醤油は江戸時代からごく一般的につくられていました。一方、大豆、小麦の供給はますます困難になり、昭和4、5年ごろになると、そのころ商品化され始めた、たんぱく質原料を酸分解した粗製アミノ酸液でしょうゆを増量するメーカーが現れます。

 戦時色が濃くなる中、まずは大豆、小麦が統制され、昭和15(1940)年にはしょうゆそのものが統制物資に指定されます。同時にしょうゆの規格値が制定され、品質が制限されるようになります。原料難はさらに進み、コプラミール(ヤシの実油の搾りかす)やごま油の搾りかすなども使わざるを得なくなり、昭和21年にはついにしょうゆの規格は比重のみという状況になります。

 このころには海水を濃縮してカラメルで色づけをしたものまでしょうゆとして販売されていたというありさまです。このような状況の中で、キッコーマンは宮内省に納めるしょうゆを醸造するための御用醤油醸造所(通称御用蔵)で、伝統的なしょうゆづくりの技術保存に努めるとともに、醸造しょうゆの存続のための技術開発を進めました。次回もしょうゆの近代史を取り上げます。

(キッコーマン国際食文化研究センター

山下 弘太郎)

 

(KyodoWeekly7月8日号から転載)

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