源頼朝の顔は、果たして?

 人の顔で同一人物かどうかを自動的に識別する「顔認証」が、いろいろな物や場所に採用されている。企業のオフィスや空港、遊園地などで人の出入りを記録するようになった。サングラス姿でも認証するそうだが、事前に登録された顔の画像データと大きく違うと、認識できないケースもある。

 映画や漫画では、全く別人の顔になる話がある。だが現実には、人の顔はそんなに変わらないという前提があるようだ。ところが歴史上の有名人物の場合、顔や姿が激変することがしばしば起こる。

 今年10月、山梨県甲府市の甲斐善光寺にある最古の「源頼朝像」の劣化が深刻で、修復されることになったというニュースが流れた。この像は全身の破損がひどく、彩色は落ち、両目も空洞になっている。その顔はわし鼻で貫禄あるが、気難しそうな初老の人物だ。

 かつて同寺で実物を見た時は「頼朝のイメージとかなり違い奇妙な像だな」と思った。頼朝は虫歯や歯周病に悩まされ、晩年は症状が悪化したらしい。この像は、痛みをこらえて威儀を正したリアルな姿を写したのだろうか。内部には銘文が記され、学者が解読すると、頼朝の死後すぐに妻の北条政子が造らせたと分かった。それ故に「本人に最も似ている」ともいう。

 頼朝ですぐに思い出すのは、京都・神護寺に伝わる国宝の肖像画だ。冠と角張った装束を着けた理知的な威厳ある武者で、美男とうたわれた頼朝はさもありなんという印象だ。あの肖像画が頼朝とされてきた主な理由は、寺伝の古文書の記載から。また、大英博物館が所蔵する後世のそっくりの模写に「源頼朝」と記した画賛がある点も補強の証拠とされた。

 だが近年「神護寺の肖像画が頼朝像とされるようになったのは江戸時代からで、本来は足利尊氏の弟の直義を描いた」とする説が出された。この新説に反発する研究者もあり、大きな論争となっている。その影響で教科書や参考書では、神護寺の肖像画を外したり「伝源頼朝像」と付記して掲載したりするようになった。甲斐善光寺の像を掲載する教科書もあるという。

 頼朝は、その後の武士たちにとって理想像や権威であり、神格化もされた。徳川家康は幕府を鎌倉幕府に倣ったため頼朝を尊重し、姓を藤原から源に替えた。薩摩の島津氏は、初代の出自を頼朝のご落胤(らくいん)と主張。幕末期、鎌倉に頼朝の墓として石塔を造った。それが現存する頼朝の墓だ。

 彼らは、どんな顔形の頼朝を想像していたのだろうか。

(共同通信デジタル編成部 ニュースチーム次長 左方 倫陽)

 

(KyodoWeekly12月17日号から転載)


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