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悲劇の背景にあるもの

 1970年後半のカンボジアで、約200万人を飢餓や病気、処刑などで死に追いやったとされるポル・ポト派。最高実力者ポル・ポトに次ぐ、人民代表議会議長の地位にいたヌオン・チアが8月4日、プノンペンの病院で死去した。93歳。

 ポル・ポト派幹部を裁く特別法廷に2007年9月に逮捕されてから拘置所暮らしだったが、今年7月初旬、体調不良を訴え病院に移されていた。妻や娘ら家族にみとられたという。

 語られないことがあまりにも多いまま、ポル・ポト派は完全に消滅した。死去の報を受けて、そう思った。

 ポル・ポトらとともにカンボジア共産党を結成し、平等な社会と完全な独立国の建設を目指した。1975年4月、親米政権を倒した。その背景には、米国による激しい爆撃があった。 カンボジアの農村部にベトナムの反米勢力が潜んでいるとみて、米国は秘密裏にカンボジアを猛爆した。日本の半分の面積にも満たない国に、米国は第2次大戦中に使用した爆弾の総量200万トンを上回る量を投下した。どれほどの市民が死亡したかは分からない。確かなのは、空爆がポル・ポト派への支持増大につながったということだ。

 農業を基本にし独立国の建設を目指したが、大地は爆撃と戦闘で荒廃していた。政策が現実と乖離(かいり)するほど、「革命」を阻止する分子と疑われた個人や集団の処刑が加速した。

 ポル・ポト政権を初めて承認した西側の国は日本だった。政権がベトナム軍により打倒された後も、ベトナムをけん制する中国や米国、タイもポル・ポト派を支持し、国連はカンボジア代表権を与えた。冷戦が終結すると、かつての支援国もポル・ポト派を非難する立場に転じた。

 カンボジア特別法廷は、人道に対する罪と、大量虐殺の罪でヌオン・チアらに最高刑である終身刑判決を出した。審理対象は、ポル・ポト政権の統治期間である3年8カ月に限定され、多くの市民を殺害したはずの米国の猛爆は対象外で、米国は戦争犯罪に問われることはなかった。ヌオン・チアらは法廷で米国の責任に言及したが、「責任逃れをしている」と検事に非難されただけだった。

 この判決から得られる歴史的な教訓は何なのか、私には分からない。抱いた理想が悪夢へと変質したのはなぜなのか。冷戦の最中にポル・ポト派を巡る国際政治力学はどう動いたのか。私が知りたかったことへの答えはない。

 ヌオン・チアは90歳を超えても「闘志を失わないために」と、毛沢東と周恩来の著書を読んでいた。病床で点滴につながれ、食事ができない状態になっても、意識ははっきりし、見舞客に応対していたという。

 自分は愛国者であり虐殺者ではない、悲劇の背景には複雑な国際政治がある―。どこからも顧みられない主張を、ヌオン・チアは最後の一息までし続けたのだろう。自分の夢がもたらした悲劇を受け入れることができないまま、最期の瞬間に彼の脳裏に浮かんだものは、何だったのだろうか。

ジャーナリスト 舟越 美夏

 

(KyodoWeekly8月26日号から転載)

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