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マニラ市街戦、比は追悼の月

 2月のマニラは追悼の月だ。太平洋戦争末期の1945年2月3日から3月3日にかけての日米両軍によるマニラ市街戦の巻き添えで民間人約10万人が犠牲になったゆえだ。

 マニラ市街戦は、太平洋戦争最大の市街戦だった。同戦争中の一都市における民間人犠牲の大きさでは、東京大空襲、広島・長崎への原爆投下に並ぶ悲劇ながら、日本では語られる機会が少ないように感じる。

 フィリピンでの戦闘といえば、日本では神風特攻隊が初出撃したレイテ沖海戦やレイテ島などでの地上戦が語られることが多いが、フィリピン側最大の悲劇の記憶は今も首都が徹底的に破壊されたマニラ市街戦である。

 この市街戦は、インテリ層を含めた首都の人々が生々しく目にした戦争でもあった。

 今年は2月4日にはマニラ市が追悼行事を行ったほか、12日には米国人作家ジェーム・スコット氏がマニラ市街戦を再検証した著書「ランページ」(凶暴な行為)の出版記念会をマニラで行った。

 記念講演でスコット氏は「マニラ市街戦は太平洋の他の戦いとは異なり、都市の悲劇的な破壊と南京事件(1937年)のような日本軍の凶暴な行為を招いた。東洋の真珠といわれたマニラを変え、74年経った今も、その影響は残っている」と話した。

 戦前、米植民地支配下のマニラは道路がよく整備され、デパートや社交クラブが立ち並び、生活水準は高かったとされる。

 

特別な意味

 

 しかし、42年1月の日本軍侵攻後は徐々に食料事情が悪化、市場では「イヌやネコ、ハトやネズミが食用として売られていた」。市街戦のさなかでは飲み水も不足し、住民は渇きにも苦しんだ。

 スコット氏の検証では日本兵は「少なくとも住民4千人を虐殺し、数百人の女性に性的暴行をした」。一方で米軍も「自軍に犠牲が出始めるとマッカーサーは市内への爆撃や砲撃も許可、これにより多くの市民が犠牲になった」。民間人の多大な犠牲を招いた原因は日米両軍にあったのだ。日本側の研究でも、民間人死者全体の4割は米軍による無差別爆撃、砲撃によるものだったとされる。

 フィリピン守備軍の山下奉文司令官は、マニラを無防備都市と宣言してルソン島山中に撤退し、持久戦を図ることを提案、実際に陸軍はそれを実行した。 しかし、大本営や岩淵三次海軍少将らがこれに反対し、海軍陸戦隊を中心にマニラに残って戦った。日本軍はほぼ全滅、日本兵の死者は1万6665人、米兵も1010人が戦死した。

 太平洋戦争末期の戦闘の中でも現場司令官の判断次第では避けられた可能性が高く、かつ結果が重大だったという意味でマニラ市街戦は特別な意味を持つ戦闘でもあった。

 ジャーナリスト 石山 永一郎

 

(KyodoWeekly2月25日号より転載)


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