ブレーキとアクセルを踏み間違えれば重大な事故になる。それでもブレーキがあればまだましだが、菅義偉政権の政策にはブレーキがないらしい。「Go To キャンペーン」にご執心の首相も、さすがに感染拡大に追い込まれて、ようやく各地の知事などとの連携により対策を講じ、国民には自重を求めることになった。
しかし、それに至るまで、政府は専門家の分科会が悲痛な危機感を訴えても、自らの判断でキャンペーンにブレーキを踏まず、知事から要請があった地域だけ方針転換した。そのスタンスはあくまで知事サイドの判断によるもので、政府が責任を負うものではないという逃げ道が用意されている。
首相はよくよく自ら誤りを認めたくないらしい。経済回復のために必要な施策だとしても、感染状況によっては柔軟に対処せざるを得ないことは、誰でも予測できた。だから、どういう状態になったら、どのように対処するか準備できたはずだが、キャンセル料の扱い一つについても、休日返上の泥縄で対策協議に当たるありさまだ。
医療体制の逼迫(ひっぱく)も予測できたから、十分な備えがあってしかるべきだ。いまさら、病床を増やすのは難しいし、必要な人員も確保できないというのはどういうことなのか。多額の予備費を積んだはずだが、それは何のためのものだったのか。
要するに、菅内閣には危機意識が欠如している。アクセルを踏むばかりでなく、ブレーキも用意すべきだし、そのための予算も時間もあったのに、何もしていない。この不作為の失政は安倍政権から一貫している。
専門家の分科会からせき立てられて方針転換に追い込まれたから、菅首相の専門家嫌いは、ますます強まりそうだ。学術会議は日本最高の学術の専門家集団だから、その意見を封印するために、任命権を振りかざして圧力をかけたのだろう。その意図は、不都合な真実には目をつぶり、耳に心地よい意見だけを聞きたいということだろう。
学術会議の人事については、側近が特定の人たちを排除しようと政治的な意図から上申した意見を丸のみしている。また、「桜を見る会」の安倍晋三前首相の説明が虚偽であることが最近になって明白になったが、これについても官房長官としては、前首相の説明をうのみにして記者会見などで説明したにすぎない、と言い逃れている。こんな無責任なことはないだろう。
菅首相がどう考えようと、世論は感染症対策を通して専門家集団の役割の重要性に気がついている。不本意でも専門家の意見を尊重することを内閣の基本姿勢とするように改めなければ、これからもブレーキのない暴走をしかねない。そのためにも、学術会議の任命権問題の法令違反を認め、耳に痛い意見も聞く姿勢を示すべきだろう。
(東京大名誉教授 武田 晴人)
(KyodoWeekly12月7日号から転載)