「僕は日本人の姓も読めないのに・・・」 【平井久志×リアルワールド】
世の中にはいろいろな専門記者がいるが、「訃告記者」を自称し、死亡記事を専門に書き続けている記者は珍しい。韓国の聯合ニュースで東京特派員も務めたことのある李忠源(イ・チュンウォン)記者は、死亡記事専門記者である。先月、その李記者からメールが送られてきた。
韓国を代表する知日派ジャーナリストの曺良旭(チョ・ヤンウク)さんの死亡記事が添付されていた。曺さんがかつて共同通信ソウル支局に勤務し、その後も筆者と親しかったことを知っての知らせだった。
曺さんは9月12日に食道がんのために71歳で逝ったが、2018年に韓国紙とのインタビューで、日本に関する著書が二十数冊、翻訳書は60冊以上に上ると述べている。第8回ラジオ短波アジア賞や第2回日韓文化交流基金賞などを受賞した。
曺さんは韓国外国語大学日本語学科を卒業し、三井物産ソウル支店に就職した。しかし、大学新聞の記者をしていたこともあり、ジャーナリストの夢を捨てきれず、1978年に共同通信ソウル支局へ転職した。
日本メディアのソウル支局の韓国人スタッフは、それまでは日本の植民地時代に日本語教育を受けた世代の人たちであった。当時は、ソウル特派員で韓国語の上手な人はほとんどおらず、ソウル発原稿はこうした韓国人スタッフの助けを借りてつくられていた。ソウルの日本メディアで最初の解放後世代の韓国人記者だった。
80年5月に光州事件が勃発すると、光州の現場へ向かうが、慶尚南道生まれの彼は言葉のアクセントが全羅道の人と違うので、一言もしゃべらず取材しなくてはならなかったと述懐していた。
彼は日本と向き合う姿勢について、共同通信ソウル支局に勤務中の78年にアジア経済研究所の服部民夫さん(後に東大教授)と会った時のことを語っていた。自分は「はっとり」という相手の姓も読めなかったのに、名刺を見た服部さんは「ああ、昌寧曺氏ですね」と慶尚南道昌寧郡を本貫とする姓であることをさりげなく語ったのに衝撃を受けたという。
三井物産ソウル支店で同僚だった女性と結婚したが、夫人のお母さんは日本人だった。お義母さんは、日本で交際していた韓国人男性が戦後、韓国へ帰ったが、当時、日韓の間に国交はなく、航空路もなかった。しかし、米軍基地から単身、彼の後を追って韓国へ渡り、結婚を遂げたという人だった。
80年代に筆者が韓国語学習のために韓国に留学すると曺さんから「お義母さんが日本語を話したがっているから、平井さん遊びにおいでよ」と誘われ、お義母さんの話し相手をし、国交のなかった時代に韓国に来た苦労話などを伺った。
彼は、共同通信ソウル支局を辞め、雑誌「マダン(広場)」の編集にかかわり、その後、朝鮮日報文化部で活躍した。しかし、東京特派員になりたくて、創刊されたばかりの「国民日報」(現「文化日報」)の初代東京特派員として念願の東京生活を送った。
その後は、出版社をつくり、日本文化研究所を設立し、著作や翻訳を続けたが、どれも日本に関係するものだった。日韓関係は悪化や改善を繰り返したが、日本を本当に知ろうとした人をこんなに早く失ったことは日本にとっても大きな損失だ。
【KyodoWeekly(株式会社共同通信社発行)No. 44 からの転載】
平井久志(ひらい・ひさし)/共同通信客員論説委員。2002年、瀋陽事件報道で新聞協会賞、朝鮮問題報道でボーン・上田賞を受賞。著書に「ソウル打令 反日と嫌韓の谷間で」(徳間文庫)、「北朝鮮の指導体制と後継 金正日から金正恩へ」(岩波現代文庫)など。