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【スピリチュアル・ビートルズ】最初は断った『ハード・デイズ・ナイト』 映画プロデューサーのデニス・オーデル逝く

デニス・オーデルの回想録『At the Apple's Core』(洋書PETER OWEN)。
デニス・オーデルの回想録『At the Apple’s Core』(洋書PETER OWEN)。

 ビートルズ映画『ハード・デイズ・ナイト』、『マジカル・ミステリー・ツアー』、『レット・イット・ビー』や『ジョン・レノンの僕の戦争』などに関わり、アップル社の取締役も務めたデニス・オーデルが2021年12月30日に亡くなった。98才だった。

 1963年12月、ユナイテッド・アーティスツの欧州部門トップのバド・オーンステインからの電話をオーデルは受けた。オーンステインはオーデルに、ビートルズというグループを主役とする音楽映画のアソシエイト・プロデューサーを引き受けてくれないかと言った(「At the Apple’s core: The Beatles from the inside」Peter Owen)。

 オーンステインは「彼ら(ビートルズの人気)は3カ月も持たないだろうから、できるだけ安く、手っ取り早く映画を作りたいのだ」という。再び、彼からの電話があった。オーデルが断ると、それを聞いた3人の10代だった子どもたちが騒ぎ出した。

 彼らのアイドルとの仕事を父親が断るとは信じられなかったのだ。オーデルは子どもたちのリアクションに驚いたが、彼らはビートルズを愛していたのだ。翻意したオーデルはオーンステインに電話を掛け直すと「オファーを受ける」と伝えた。

『ハード・デイズ・ナイト』のサントラ盤(米国盤)。
『ハード・デイズ・ナイト』のサントラ盤(米国盤)。

 ’64年3月2日、『ハード・デイズ・ナイト』の撮影が始まった。ロンドンのパディントン駅での撮影初日にセットでオーデルは初めてビートルズと会った。ビートルズが多忙でそれまで会えなかったのだ。アラン・オーエンの脚本は彼らの性格を的確にとらえていた。

 予算はわずか18万ポンドでポップ・フィルムの予算としても貧弱だった。そのためオーデルはEMIのジョセフ・ロックウッド社長と交渉し、必要な機材、輸送、メンテナンスなどの全面的協力を取り付けた。さらに友人に頼んでガトウィック空港に停めてあったヘリコプターを使わせてもらうことにして、その費用を25ポンドで済ませたという。

 撮影中、ジョンと彼の父親との複雑な関係を知ったという。ロンドンのスカラ劇場でコンサート場面を撮影中のある日、フレディと名乗る中年男が、劇場の外で何時間も立っており、「自分はジョンの父親だ。中に入れてくれ」という。それをオーデルがジョンに伝えると、彼は「言ってやれ、消え失せろって」。オーデルは仕方なくフレディにそれを告げた。

 対照的にポール・マッカートニーと彼の父親ジムとの関係は良好だった。ポールはジムの誕生日プレゼントをオーデルに相談した。ジムは賭け事が好きだというので、オーデルは競走馬を提案。鹿毛の去勢された3歳馬を買い、ジムは大喜びだったという。

 映画『ハード・デイズ・ナイト』は大成功を収めた。当初、ユナイテッド・アーティスツの重役たちはアメリカの観客がビートルズの発音や会話が分かるのか心配していた。却下はされたが、声をプロの俳優によって吹き替えるアイデアさえあったという。

 『ハード・デイズ・ナイト』の仕事を通じ、オーデルは監督のリチャード・レスターと良好な関係を築くことができた。『僕の戦争』にジョンを参加させるアイデアは撮影直前まで内々で話し合われた。結果としてジョンが参加したのは、映画のテーマに彼が強く共感したからだった。オーデルはいう「撮影中のジョンはあまり楽しそうではなく『陸にあがった魚』のようだった」。というのもジョンは他のバンド・メンバーと一緒にいたかったからだ。

 ビートルズのマネージャー、ブライアン・エプスタインが ’67年8月27日に急死した。彼の死がビートルズおよび関係者に与えたインパクトは計り知れなかった。その頃、オーデルはNEMSに行き、ジョン、ポール、側近のニール・アスピナールに会った。

『マジカル・ミステリー・ツアー/ザ・ビートルズ』 (ユニバーサルミュージック)
『マジカル・ミステリー・ツアー/ザ・ビートルズ』
(ユニバーサルミュージック)

 そこで分かったのは、彼らが新しい会社――アップルを設立しようとしており、オーデルを取締役の一人として迎えたいと思っていることだった。アップルは ’67年の5月に登記され、最初の主要プロジェクトはテレビ映画の『マジカル・ミステリー・ツアー』となった。

 オーデルは ’67年9月のNEMSの会議で『マジカル・ミステリー・ツアー』のアイデアを初めて伝えられた。事前準備が十分でなかったため、撮影は混乱したという。撮影後、オーデルは米ABC、NBCとの交渉に時間を割いた。しかし、ポールはBBCで世界初放送をしたいという。オーデルは反対したが、結局、’67年のボクシング・デイ(12月26日)にBBC1で家族団らんの時間である午後8時35分に白黒で放送された。オーデルはいう「ああいうアバンギャルドな作品はBBC2で夜10時に放送されるべきだったと思う」。

 2021年11月25日にBBCが報じたところによると、ビートルズの最新ドキュメンタリー「The Beatles:ゲット・バック」を監督したピーター・ジャクソンは「ビートルズは私(ジャクソン)よりも前にJ・R・R・トーキンの小説『指輪物語』を原作にした映画『ロード・オブ・ザ・リング』(LOTR)を作ろうとしていた」と語った。

 そもそも、そのアイデアを持っていたのがオーデルだった。オーデルが最初に接触したのは『アラビアのロレンス』や『戦場にかける橋』で知られるデビッド・リーン監督。だが彼は次回作にとりかかるところで時間がないと断ってきた。次は『2001年宇宙の旅』のスタンリー・キューブリックだった。オーデルは彼に連絡し、本を送った。

 ’68年の初めのことだった。ビートルズ一行はインドのリシケシュで瞑想修行中。オーデルはインドに飛んだ。そしてジョン、ポール、ジョージ・ハリスンに『指輪物語』の本を渡して、読んでみてほしいと説得した(リンゴはすでに帰国していた)。

 ポールは第一部『指輪の仲間』、ジョンは第二部『二つの塔』、ジョージは第三部『王の帰還』を読んだ。「ジョンはガンドルフを演じたいといい、このプロジェクトのための音楽で2枚組のアルバムを作れるだろう」とオーデルに語ったという。

 英国に戻ったオーデルはキューブリックに連絡すると、彼は「映像化できない」と答えた。彼にジョンとポールに会ってもらったが、その後、ジョンもポールもLOTRに興味を失ってしまった。「キューブリックが彼らを説得して、映画化が難しいと思わせたのでは」。

映画『ロード・オブ・ザ・リング』DVD (ワーナー・ホーム・ビデオ)
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 ポールはLOTRのジャクソン監督に言ったという「僕ら(ビートルズ)がやらなくてよかったよ。だって君は君の映画を撮れたのだし、僕は君の映画が好きだからね」。ジャクソンは答えて「そうだね。でも(ビートルズが)やらなかったのは残念だ。だってミュージカルになっていたかもしれないからね」。

文・桑原亘之介

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