東急田園都市線の歴史を振り返る 戦後インフラ学ぶ講演会、ウェブで再開

 新型コロナウイルスの感染が始まって1年あまりが経過した。現在も収束せず、この間、数々の講演会が開催中止を余儀なくされた。
一般社団法人建設コンサルタンツ協会(東京)が、2018年9月から毎月1回開催してきた戦後のインフラ整備の歴史を振り返る講演会「インフラ整備70年~戦後の代表的な100プロジェクト」もその一つだ。
敗戦で物資も建設機材もなく、身ひとつで戦場から戻った技術者たちの「生の語り」を後世に伝えようと始まった。“酷道(こくどう)”と揶揄(やゆ)された東海道など「1級国道の整備」から「名阪・東名高速道路」の建設、「東海道新幹線」、高度経済成長期の電力供給を支えた「黒四(クロヨン)ダム」など、戦後の代表的なインフラ整備の軌跡を通して、日本の高度経済成長の歩みをたどる試みである。

コロナ禍のオンライン開催決断

 この“インフラ講演会”の会場は東京・六本木の政策研究大学院大学の300人収容の講堂。毎回、技術者や若い学生たちで盛況だった。講演会の提唱者である元土木学会会長の中村英夫・東京都市大名誉総長は「社会の基盤を支える列島インフラの歴史を、企画・設計段階から実際の工事に携わった人たちの証言や秘話を通して伝え、今日の社会に生かすのが狙い」と開催趣旨を語る。

これまで関係者の経験・知恵を“直に”聞き取ってもらおうと対面での「リアル開催」にこだわってきたが、コロナの感染拡大が続き、リアル講演会の中止を重ねる中、再開のためオンライン開催をこのほど決断した。「戦後第1世代の大ベテランたちが90歳を過ぎ、相次いで亡くなるのを座視するわけにはいかない」と方針転換した。

多摩田園都市(濃いグリーン)と東京、横浜の位置=講演会資料より

 初めてのオンライン講演会は3月10日開催。講演会としてはおよそ1年ぶりの再開だ。テーマは「田園都市を創る」。戦後混乱期の1950年代に多摩地域(横浜港北部を含む)に、鉄道「田園都市線」を軸にした都市開発を実現した東急の取り組みを振り返った。普段のリアル講演会の参加者を上回る800人が視聴した。

講演会「インフラ整備70年」のチラシ

田園都市線の開発着手からおよそ70年。その沿線エリアには現在、63万人が居住する。「なぜ、東京近郊の私鉄沿線のなかで、東急田園都市線の人気が高いのか。沿線はどのようにして生まれ成熟してきたのか」――。講演者が誕生秘話を語った。

講演会の進行役・太田雅文さん

壮大な「多摩田園都市構想」

 講演会は進行役・太田雅文さんの「みなさん、こんにちは」という元気なあいさつで始まった。東大土木工学科で「計画学」を専攻したベテランエンジニア。現在は東急総合研究所主席研究員。パソコンでの「リモートワーク」もこの1年ですっかり慣れたという。「昨年7月にリアルの講演会用に準備をしていたが、ようやくリモートで実現しました」と笑顔を見せる。

 講演者は東急グループの3人。東急取締役常務執行役員の髙橋俊之さんが「多摩田園都市の基盤整備と運営」、東急電鉄副社長の城石文明さんが「新玉川線地下化で都心へ新ルート」、東急沿線開発事業部担当課長の泉亜紀子さんが「次世代への郊外まちづくり」をテーマにそれぞれ話した。3人の話は合わせて1時間超に及んだ。3人の講演で田園都市線誕生の次のような歴史が浮き彫りになった。

“鉄道王”五島慶太

 東急田園都市線の鉄路敷設を核にした沿線の大規模な都市開発は、敗戦の爪痕がまだ残る1953年にさかのぼる。一民間企業が手掛ける、公共交通を軸とした都市開発を意味する「TOD」(―Transit―Oriented Development)としては当時世界最大規模の一つと言われた大構想が産声を上げる。

“鉄道王”五島慶太=講演会資料より

大構想をぶち上げたのは東急創設者の鉄道王、五島慶太(1882-1959)。「近代資本主義の父」と言われる渋沢栄一(1840-1931)の影響を受け、渋沢提唱の「田園都市構想」の理念に従い、戦前、当時の荏原電気鉄道(後の東急目蒲線)を通じ、現在の高級住宅街「田園調布」(東京都大田区)一帯の開発に関与した経験を持つ。
この戦前の経験を踏まえ、戦後、首都圏の急速な人口爆発を見越して、多摩・港北丘陵を舞台に「4500万坪(1万5000ヘクタール)田園都市建設」をいち早く構想した。

トータルコーディネーター

 五島慶太の1万5000ヘクタールに及ぶ当初構想は、計画面積がJR山手線の内側の2倍近い気宇壮大なもの。しかし、当時の国策とは相いれない部分があったため、最終的に5000ヘクタールに縮小した。それでも極めて大規模な郊外開発だ。当時は近くに「東名高速道路」が開通する以前で、周囲は「大山街道」(国道246号「東京―沼津線」)のほかは、幅の狭い「田舎道」ばかりだった。

1965年ごろの工事風景=講演会資料より

 構想は“丘陵地”に鉄路を通す「統一したマスタープラン」に基づき具体化させた。事業用地は鉄道整備用の買収と58もの組合が連携した「土地区画整理組合事業」の組み合わせで確保。全体を「4つのブロック」に分け、新しい街を創り出していった。

 時に利害がぶつかり合う地権者(地主)との話し合いも、東急側が事業リスクを負うトータルコーディネーター役を果たして関係者との信頼関係を構築。長期間にわたる巨大開発事業を実現した。

 ほぼすべての駅に「駅前広場」を整備。「安心して歩ける歩道」「季節感を味わえる街路樹」「歩車道分離の街路網」もまちの魅力につながり、おしゃれなレストランやパン屋などの商業施設の出店が相次ぎ、町のにぎわいをつくり出していった。

地域が生み出した「たまプラブランド」

 田園都市線の駅の一つ、「たまプラーザ」。半世紀前には、多くの人にとって耳慣れない響きだった「たまプラーザ」という駅名は、今では高級感のある「たまプラブランド」として定着した。

現在のたまプラーザ周辺=講演会資料より

 路線バスの乗り入れ可能な駅前広場や区画整理事業の街路整備など「東急田園構想」でまかれた“種”が、質の良い住宅街として花開いている。住民の高齢化が一部で進むが「お年寄りにも優しい」まちづくりも近年進んでいる。

1984年「中央林間」まで全線開通

 現在の田園都市線(始点・渋谷→終点・中央林間、27駅で路線距離31・5キロメートル)の姿は、都心ターミナルの渋谷と、大井町・自由が丘方面から発した2つの鉄路(旧新玉川線・半蔵門線、大井町線)が、二子玉川で合流し都県境の多摩川を渡り、神奈川県の川崎市北部から横浜市の北西部を通り、大和市につながっている。

東急線路線図=講演会資料より

 戦後しばらくの間、大井町線はJR南武線との結節点である「溝の口」でストップしていたが、延伸工事が進み「たまプラーザ」→「長津田」(1966年)→「つくし野」(1968年)→「すずかけ台」(1972年)→「つきみ野」(1976年)と延び、小田急江ノ島線との接続駅である「中央林間」(1984年)まで、全線開業に至った。途中駅の「あざみ野」には、1977年に「新横浜」から横浜市営地下鉄3号線が延び接続した。

新玉川線の地下化に巨額投資

 鉄道を軸にした都市が順調に発展する一方で、朝のラッシュ時における「混雑緩和」「輸送力の増強」が新たな課題として浮上した。1980年当時の渋谷到着の混雑率は231%。問題解決の切り札として、東急は、都心から渋谷を通り二子玉川まで延びる地下新線(半蔵門線―新玉川線)の建設を決めた。新線建設を決断したのは、当時の社長で、日本商工会議所の会頭も務めた五島昇(1916-89)。五島昇は五島慶太の長男。「都心へのアクセスをもう一つ増やす」と建設にまい進した。

新玉川線の建設工事=講演会資料より

 東急の担当区間の当時の推定工事費は500億円(最終的には727億円)に上った。工事が本格化してきた1969年の東急電鉄全線の年間運賃収入104億円の5倍もの巨額投資だったが、国の政策支援融資などを得て実現させた。東急の基幹路線、東横線では目蒲線(後の目黒線)を使って、新設された地下鉄南北線経由ルートも整備され、都心へ2つのアクセスが実現、混雑緩和につながった。

田園都市の「これから」

 講演会では、現在土木学会会長を務める家田仁・政策研究大学院大教授が「多摩田園都市のスケールの大きさ、鉄道の混雑の緩和、駅空間の多目的活用」などを評価した上で、今後の田園都市の在り方について問題提起した。

 家田教授は「田園都市は1日にしてならず」として、1920年代に始まる「導入期」、1960年代以降の「創世期」、1990年代から現在までの「育成期」を振り返りながら、これからの「転換期」への課題として、テレワークを進展させて都心集中を緩和する▽高品質の総合拠点を充実させ「郊外住宅地」を「郊外都市」に進化させる▽豊かな自然と風景を回復再生し、暮らしの外部的な付加価値を増進させる▽高齢化が進む中で広域化した住宅地の再編成を図りつつ域内モビリティを確保する▽住宅地を「相続劣化」させることなく居住者の世代交代を持続的に進める―の5項目の課題を挙げ、今後の取り組み強化に期待を寄せた。

次世代への「郊外まちづくり」

 21世紀を迎えた現在の多摩田園都市では、そのブランド価値を維持、向上を図るため、駅前広場や整備された街路を最大限に活用した「域内モビリティ施策」への取り組みが進む。

 たまプラーザ駅を拠点に、持続可能なまちづくりを目指す実証実験「郊外型MaaS(マース、モビリティ・アズ・ア・サービス)」(利用者の目的やし好に応じ最適な移動手段を提示する試み)や、高度成長期に建てられた団地の老朽化、高齢化、空き家、コミュニティーの喪失など郊外住宅地共通の課題解決に取り組む。

 2012年、東急電鉄は横浜市と「近代郊外まちづくり」に関する包括協定を締結。「産・官・学・地域」が協働し、まちづくりの担い手を発掘し、コミュニケーションの場を設けたりして、地域の社会課題を解決していく。この取り組みは現在、「たまプラーザ」駅周辺に限定されているが、今後、多摩田園都市全域へと拡大する計画だ。

 2020年以降のコロナ禍、大都市生活者の行動パターンは大きく変容した。在宅勤務が増え、朝のラッシュ時の混雑の密度が幾分変わった。鉄道は「通勤流動対応偏重型」から、多目的利用を受け入れる「地域交流型」への転換期にある。

 テレワークが増え、通勤時間は他の目的に使える。多摩田園都市をはじめとした郊外まちづくりは、この変化を「追い風」に、将来に向けての更なる進化を遂げていくに違いない。

医(衣)・食・住・“学”

 多摩田園都市をぶち上げた東急グループ創始者の五島慶太は苦学力行の人だ。信州・上田の近郊、長野県小県郡青木村出身。片道3里(12キロメートル)の道を毎日、歩いて3年間、上田市内の旧制中学に通った。上級学校への進学は経済的な事情でままならず、古里で小学校の代用教員をしながらチャンスを狙った。

 「官費支給」の東京高等師範学校(現在の筑波大学)に合格し、校長の嘉納治五郎に出会い、薫陶を受ける。回り道をしながら、後に東大を経て官界に進むが、教育の重要性を強く認識し、自らも戦前「東横商業女学校」をつくり、女子教育に力を入れた。

 田園都市線の沿線には「東京工大すずかけ台キャンパス」「東京都市大横浜キャンパス」(あざみ野近郊)などが立地する。歴史をたどれば「大岡山の東京工大」「日吉の慶応大」「武蔵小杉の日本医大」も、駅の近くの用地を五島慶太が提供し、誘致した。「都立大学」「学芸大学」は、キャンパスは移転したが、いまもってその名を駅名にとどめている。

 「鉄道は、沿線の医(衣)、食、住、学を支える」が持論だった五島慶太。開発構想から70年、「多摩田園都市」には実業家としての生き方だけでなく、文化教養を重視する教育事業家としても確固たる信念を持っていた五島慶太のDNAが継承されている。

次回テーマは「信州の峠を貫くトンネル」

 スケールの大きい多摩田園都市構想をテーマにした初めてのオンライン講演会は好評だった。2回目のオンライン講演会は4月19日に開かれる。テーマは「長野県の峠を貫くトンネル――安房峠と権兵衛峠」。建設コンサルタンツ協会ホームページで視聴申し込みを受け付けている。講演者は国土交通省事務次官などの要職を務めた谷口博昭・芝浦工業大学客員教授ら。定員1000人。

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