【コラム】疾風に勁草を知るのたとえ

 素人の希望的観測ながら、ようやく新型コロナウイルスの感染は収束しつつあるのかもしれない。とはいえ、これまでこのウイルスで命を失った人は日本で600人を超え、世界では30万人近くに達する。今なお感染で苦しんでいる人もいるし、これから景気がさらに落ち込むと予想する識者もいる。新型コロナウイルスが引き起こした災いは計り知れない。

 そうした“百害”がある半面、誤解を恐れずに記せば、“一利”は見いだせる。すなわち、疾風たるコロナ禍で、勁草(けいそう)に値するリーダーが現れた結果、国民の政治家を見る目が肥え始めたことである。平時では人のいいオジサンでも、非常時には何の役にも立たないことは往々にしてあるが、コロナ禍は政治家の本性をあぶりだす効果を発揮している。

 コロナ禍の発生とともに、政府は「3密」(密集、密閉、密接)を避けるように呼び掛けてきた。一方、どの政権にとってもありがたくないのは国民の「三不」(不信、不満、不安)にほかならない。「李下に冠を正さず」(編集部注:「自分の行動は常に用心深くし、疑われるようなことをしてはならない」という意味)の格言は政治不信を芽生えさせないためであるし、古代ローマでは「パンとサーカス」で人々の不満を和らげた。

 しかし、人々の不安を取り除き、「安心」を与えるのは科学でも技術でもない。しばしば政治家は「安心」と「安全」を並べて用いるが、前者は主観であるのに対し、後者は客観であり、似て非なる。客観的数値を指し示せば「安全」の度合いは高まるかもしれないが、「安心」の確立はリーダーたる政治家の言葉・演説でもたらされる場合が多い。

 昔、人類は日々の不安を取り除くため、初めて出くわしたものに取りあえず名称をつけ、得体の知れたものにした。同様に、現下のような非常時には、政治家、とりわけリーダーの言葉・演説で国民は安心を得る。ドイツやニュージーランド、カナダでも、さらには北海道や大阪府でも、リーダーの言葉で人々の不安は小さくなり、希望がともされた。

 それらに比べ、安倍晋三首相へは厳しい批判が多い。たとえプロンプターを使おうが、官邸官僚の書いた“作文”を“代読”しているようでは、国民の琴線に触れることはない。だから「安倍総理は“機関”としては間違いなく首相だが、実は非常時の“リーダー”には不向きなのではないか」(閣僚経験者)といった見方がなされている。共同通信の直近の世論調査(5月8~10日)でも、8割以上が何らかの形で「生活に不安を感じている」と回答しているが、その原因の何割かは安倍首相に帰せられる。

 国民がリーダーに求めているのは演説の雄弁さや流ちょうさではない。ボキャ貧でもいいし、とつ弁でもいい。必要なのは信念と覚悟に裏打ちされた演説であり、国民への発信力である。今回のコロナ禍を機に、わが国では政治家と国民を結ぶハイフン(言葉)がどれだけ脆弱(ぜいじゃく)なのか、どれだけ少ないのかと痛感した人は少なくない。

 「唄を忘れたカナリヤ(原名:カナリア)」は1世紀近く前に誕生した童謡で、「後ろの山に捨てましょか」「柳の鞭(むち)でぶちましょか」といった酷な歌詞が垣間見られる。昨今の政治家はありきたりのあいさつには長けていても、聴衆の心を揺さぶるような演説を行える者は極少である。もっとも、たとえ「演説を忘れた政治家」でも、これまでは国民に捨てられることも、ぶたれることもなかった。

 「国民の政治家を見る目が厳しくなったから、演説を磨かなければ」(若手議員)という者もいるが、人々の心を動かす演説はテクニックなどではない。政治家は「国民に寄り添う」という表現を好んで用いるが、本当に寄り添っていれば、また、本当に信念と覚悟があれば、おのずと国民に伝わるはずである。熱しやすく冷めやすい日本人は、コロナ禍が収束して治(平時)に戻っても、この乱(非常時)のときを忘れないことが必要ではないか。

【筆者略歴】

 本田雅俊(ほんだ・まさとし) 政治行政アナリスト・金城大学客員教授。1967年富山県生まれ。内閣官房副長官秘書などを経て、慶大院修了(法学博士)。武蔵野女子大助教授、米ジョージタウン大客員准教授、政策研究大学院大准教授などを経て現職。主な著書に「総理の辞め方」「元総理の晩節」「現代日本の政治と行政」など。

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