【コラム】大学入試改革の理想と現実

 ぼくは、制度や仕組みは、たまに変えた方がいいと思う。

 それがたとえ、結果的にあまり効果がなくても、長く変更が加えられない人や組織やシステムはゆがみ、よどみ、澱(おり)がたまる。新しい風を呼び込むという点において、変化には正の効果がある。

 ただ、中にはやらない方がよさそうな変化や変更もある。例えば明らかに前よりも悪くなるものや、よく考えずに変えようとするものや、変えたことによるメリットを享受できるのがごく少数の範囲に限局されるものなどだ。

 

 今回の大学入試改革は、この項目を全部埋めてしまいそうだ。

 このテーマはいろいろな人がさまざまな切り口で語っているし、突っ込みどころが多々あるので、いま総花的な批判をすることに意味はないだろう。だから、理想と現実が実装手段において乖離(かいり)するところだけ書いておきたい。大学入試改革に限らず、多くの分野、多くの事例で同じことが起こっていると思うからだ。

 大学入試改革の目玉の一つに、思考力、論理力の重視がある。それはそうだ。思考力と論理力は何をするにも邪魔にならないし、ないよりはあった方がいい。いまどき、「下手に論理力があると頭でっかちで使いにくいから、雇わない」なんて企業はないだろう。ない……はずだ。いや、そういう企業が多いから、子どもたちや両親が本気で思考力や論理力を磨かないのか。だとしても、「思考力はあった方がいい」くらいの演技を、今どきの企業はしてみせる。

 企業の考えはともかくとして、児童・生徒・学生は入試で力を試されるのでなければ、その能力のコストパフォーマンスは低いと考える。これを批判することはできない。誰だって、直近で役に立たない能力を磨くために、時間的、金銭的、工数的資源を突っ込みたくはない。

 国策としての思考力強化はずっと前から唱えられていて、悪名高いゆとり教育だって、詰め込み型の教育に割く時間を減らして「ゆとり」を演出し、できた余裕で思考力や論理力などの生きる力を養おうとするのが本旨だった。

 結果として児童・生徒たちは確かにゆとった。ちゃんと成績が落ちた。今の初等教育、中等教育のカリキュラム体系であれば、学習項目に時間を投入した子はきちんと評価を獲得する傾向にあるので、成績が落ちたのは成果と呼んでいい。余剰時間は確かに生まれたのだろう。

 ただその余剰時間は思考力、論理力には使われず、生徒たちは何らかの追加評価を求めてボランティア活動などに追われる結果になった。ボランティア活動は推薦入試における評価項目だから、そうなるのは自然である。

 その後もPBL(問題解決型学習)やアクティブラーニングなど、行政は手を変え品を変え思考力を醸成しようとしたが、お世辞にもうまくいっているとはいえない。それに業を煮やした結果が、大学入試改革といえるだろう。大学入試の評価項目になれば、生徒たちはその力を伸ばすために必死になる。

 では、どうやって、思考力や論理力を評価するのか。よくいわれるのは記述式試験の導入である。確かに記述式試験は問題の作り方によってはマークシート方式の試験よりもよく思考力を評価できるだろう。

 だが、それを達成するのはめちゃくちゃ大変である。

 各大学は、その年の入試が終われば間を開けずに次の年の試験問題作成に入る。一年がかりで作るのだ。ちゃんと思考力を試す問題は、かなりの試行錯誤を経ないと安定して作ることができない。

 でも、作るのはまだいいのだ。記述式試験は採点こそが地獄である。無数の解答バリエーション、誤記入、誤字脱字、消し忘れ、消し過ぎ。どこまでを正答とし、どこからを誤答とするのかを確定させるだけでも、1日がかりの仕事になる。それを十万単位での採点、誤採点がないかのチェック、チェックの正当性の検証、誤採点を発見したときの対応と敷衍(ふえん)していけば、まさに国家規模の作業になる。

 マークシートの採点だって大変なのだ。マークが薄かったり濃かったり、複数マークしてしまった解答はわざとなのか消し忘れなのか、公平性を担保して、かつエラーなくちゃんと採点するためには膨大な時間がかかる。

 それを記述式で行えば、どのような混乱が起こるかは想像に難くない。マークシートですら、ぎりぎりのスケジュールで動いているのだから。想像されるこうした事態を緩和するために、揺れがあまり出ないような解答を導く問題にしようとか、記述量を抑制した試験にしようとか、対案がねじり出されているが、それでは「単に記述という形式をとっているだけ」で、思考力を試すような問題にするのは無理である。

 思考力を試すよ、そのために記述式試験をやるよ、と言ってしまった手前、引っ込めることができないので、アリバイ工作として実施してお茶を濁すのなら、お金と時間をどぶに捨てることになる。

 意思決定層や第三者機関が理想を思い付くのはいい、理想がなければ実装も動かないからだ。でも、理想を語ったものは、実装が施され、動きだすところまでは一緒に働かないと、その理想を実現できないばかりか、社会に多大な損をもたらし、その責任は現場で一生懸命働いていた人におっかぶせるようなことになってしまう。

 国語と数学の記述式問題導入は延期になるけれども、ことは大学入試だけではないのだ。例えば経営層が人工知能(AI)の導入を約束する。でも本当に実効あるAIなんてそう簡単に導入できるものではなく、遅々として進まない実装に経営者が怒り出す。怒られるのは嫌だから適当な概念実証(PoC)をやって成果をでっち上げておしまい。残ったのはプレスリリース1枚だけ、などというのは、どこの企業でも起こっている。

 意思決定層と現場の乖離など数世紀をさかのぼって繰り返されてきた普遍的な事態だが、情報技術の発展はこの乖離の度合いを大きくしたと思う。でも、それを仕方がないねで済ませて、なんの実も結ばないアリバイごっこで遊んでいられる時間は長くないと思うのである。

【筆者略歴】
岡嶋裕史(おかじま・ゆうし) 中央大学国際情報学部教授/学部長補佐。富士総合研究所、関東学院大学情報科学センター所長を経て現職。著書多数。近著に「ブロックチェーン」(講談社)、「いまさら聞けないITの常識」(日本経済新聞出版社)など。

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