【コラム】自民党の派閥が様変わりした理由

 時折、派閥の政治資金パーティーなどが開かれれば、「◯◯派」といった活字が新聞紙面に踊るし、毎週木曜日の各派総会での領袖(りょうしゅう)の発言がニュースで流れることはあるが、かつての「派閥政治」なる言葉は今や影をひそめる。もっとも、9月の自民党総裁選が近づくにつれ、登場の頻度は高まる。田中角栄氏の「政治は数、数は力」の論理は権力闘争に際しては今も健在である。

 自民党が誕生したのは1955年のことであり、結党当初は「8個師団」と称される8派閥が存在したが、中選挙区制のもと、やがてこれらは5大派閥に集約され、激しい派閥抗争が展開された。とりわけ政局や総裁選になると、派閥を単位とした合従連衡が繰り返され、昨日の友が今日の敵になることも、今日の敵が明日の友になることもあった。

 いにしえより「人が3人集まれば派閥ができる」といわれるように、派閥やグループは自民党特有のものではない。さすがに「○○派」と称されることは多くないだろうが、いずれの組織にも似たものは存在する。だが、自民党の場合、派閥は政権獲得を目指す政策集団であるだけでなく、独自の事務所を構え、政治資金やポストの配分機能も果たしてきた。

 この、いわば江戸時代の「藩」にも似た派閥だったからこそ、「一致団結箱弁当」なる掛け声が叫ばれ、「オヤジ(領袖)を総理にするためなら死んでもいい」と本気で思う議員もいた。「殿」の代替わりの際には「お家騒動」が起きたり、分裂したりすることもあったが、それでも派閥は存続し、自民党政権は「派閥連合政権」の色彩を強く帯びた。

 しかし、二つの大きな要因で派閥は様変わりした。一つは衆議院への小選挙区制の導入であり、これによって個々の議員は派閥よりも党執行部に忠誠を誓うようになった。個々の議員、とりわけ若手議員は派閥の全面支援を受ける必要がなくなり、「貸し借り」の構図が崩れたのである。「いざ鎌倉」と「本領安堵」との関係が成り立たなくなったともいえる。

 もう一つは、小泉純一郎政権以降の「派閥無視人事」である。かつて組閣に際して派閥の領袖は推薦リストを提出して力を見せつけたが、小泉元首相は派閥にとらわれない人事を断行し、それが今日も続いている。さらに、自民党内でも「社員旅行に行かない世代」が増えたことも挙げられる。

 今日の派閥は体育会からサークルに近い形となっており、何のためらいや迷いもなく脱会する者は珍しくない。小泉進次郎氏をはじめ、派閥に入っていない自民党議員も少なくない。二つの要因は永田町に「文化大革命」を引き起こし、自民党で大石内蔵助の生き方が共鳴される土壌は著しく小さくなった。

 とはいえ、かつての面影を失いながら今も派閥が存在しているのは、選挙での支援や盆暮れの手当てなどの資金援助、ポスト配分、情報交換といった多少の機能を残していることに加え、総裁選が定期的に訪れるからである。激しい権力闘争=総裁選が行われる限り、自民党の派閥がなくなることはあり得ない。

(政治アナリスト 楠 拳太郎)


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